【漢詩の楽しみ】暮 春(ぼしゅん)【伝統文化】

大紀元エポックタイムズ・ジャパン
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 數間茅屋鏡湖濱、萬巻藏書不救貧、燕去燕來還過日、花開花落即經春、開編喜見平生友、照水驚非曩歳人、自笑滅胡心尚在、憑高慷慨欲忘身

 数間の茅屋(ぼうおく)鏡湖(きょうこ)の浜(ひん)、万巻の藏書貧を救わず。燕は去り燕は来りて還(ま)た日を過ごし、花は開き花は落ちて即(すなわ)ち春を経たり。編(へん)を開けば平生の友を見るを喜び、水に照らしては曩歳(のうさい)の人に非(あら)ざるを驚く。自ら笑う、胡を滅するの心尚(なお)在りて、高きに憑(よ)れば慷慨(こうがい)して身を忘れんと欲するを。

 詩に云う。小さくて粗末な我が家は、鏡湖のほとりにある。そこに万巻の書物はあるけれど、それがこの貧乏を救う助けになりはしない。昨秋去った燕が今春また帰ってきたように、私も無駄に日を過ごすなかで、花が咲き、花が落ちて、これで今年の春も過ぎた。書物の一編を開けば、そこに平生の親しい友人を見るように喜ぶが、水に我が顔を映せば、年老いて、まるで昔の自分ではなくなっているのに驚くばかりだ。我ながら、おかしくなる。北方の夷(えびす)を撃滅せんとする士気が、この老いぼれの体内にまだあって、高い所に登った折などには、慷慨のあまり、我が身のことなど忘れてしまおうとするのだよ。

 陸游(りくゆう 1125~1209)の作。現存する詩の数としては、唐代の李白が約1000首、杜甫が約1500首と言われているのに対して、南宋の陸游は約9200首を超えるとされる。中国文学史上で空前の多作を誇る陸游は、その85年の生涯を通じ、宋王朝を北方から圧迫し続けた金(きん)に対して、徹底抗戦を叫んだ憂国激情の士であった。

 金(1115~1234)とは、満州から北中国にかけての広大な地域に、女真族が建てた王朝である。その間、金は宋(北宋)を滅ぼし、漢人の王朝はかろうじて臨安(杭州)を首都とする南宋にその命脈をつなぐことになるが、北宋が滅ぶにあたっては、その皇帝(徽宗・欽宗)のほか、皇女や宮女、女官などが多数捕えられ、北へ連行されて金軍将兵を相手の妓女にされるという耐えがたい屈辱を与えられた。

 祖国奪還に燃える南宋の有能な武将は、ある時期において金軍を圧倒する。とりわけ岳飛(がくひ 1103~1142)の活躍は目覚ましく、民衆の絶大な人気を集めた。これに警戒感を抱いた対金講和派の宰相・秦檜(しんかい)は、高宗の信任を得て主戦派を次々と排除し、岳飛には濡れ衣を着せて謀殺してしまう。以来、南宋は金に対して、毎年多額の金銭と高価な品物を贈ってご機嫌をとり続けるが、その金も(やがては南宋も)モンゴルの元(げん)に征服されることになる。

 陸游が悲憤慷慨していた頃は、救国の英雄・岳飛はすでになく、売国奴の秦檜もいなかったが、南宋は依然として対金屈辱外交に甘んじていた。正論ゆえの強硬意見を遠慮なくはく陸游は、官界で疎んじられ、度重なる左遷や免職などで冷遇されたため、その生活は貧しく質素なものだった。

 ただ、そのなかで庶民と大いに親しみ、ともに酒を飲む楽しみを味わえたことは、陸游にとって幸せなひと時であったに違いない。免職のうちの一つは、水害に遭って困窮する農民のために独断で官有米を放出した罪による。陸游とは、そんな痛快な人物であった。

(聡)

転載 大紀元 https://www.epochtimes.jp/p/2021/03/70653.html

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