【党文化の解体】第6章(3)

【大紀元日本12月2日】

1.互いに呼び合う「同志」(続き)

 実は、豊富な呼称を「同志」に簡単化させるのは共産党のイデオロギーである「闘争」の需要である。確かに、武力革命を行う共産党国家にしか「同志」が主流的な呼称にならなかった。この呼称は下記のような特徴を持っている。(1)一人の個人に使用する場合、個体としての特徴を弱める(2)一つのグループに使用する場合、グループ外の対象を強く排斥する傾向にある、(3)社会的な包容性に欠ける、(4)周囲に不安感を持たせる。中国共産党の辞書に「同志」以外の人はすべて「敵」と「よそ者」と見なされ「人民民主専政」をされる対象となる。毛沢東の著書・『毛沢東選集』のまえがきに「誰が我々の友達なのか、誰が我々の敵なのか、これは革命における最も重要な問題だ」とある。 中国共産党に作られたいくつかの「野党」は、中国共産党の政治上の「親密なる友達」と見なされるので、中国共産党に「同志」と呼ばれる。「同志に対して春の陽射しのように暖かく接して、敵に対しては厳冬のごとく残酷無情にする」というように、「同志」という呼称に冷酷な政治的匂いが付いているが、中国人はとっくに慣れている。中国に暮らした経験のある人ならば、中国共産党に「敵」と定められたらどんな結末が待っているかが誰でも分かる。1950年代に、「地主」、「富農」、「資本家」家庭出身の人は、ずっと自分を軽蔑する人にいきなり「同志」と呼ばれると、全身が震えるほど感激すると言っても過言ではない。

 政治闘争の中に失敗した派閥は「同志」と呼ばれる資格を失う危険にさらされている。もし失敗した派閥は単純に過ち(たとえ深刻な過ちでも)を犯したと思われる場合、通常、中国共産党の党籍を保留でき、これから政府公文に名前を出される機会がだいぶ減るが、避けられない時(例えば訃報)にまた当局に「同志」と呼んでもらえる。一方、もし勝利する派閥に「単純な過ち」より悪質だと判定されたら、失敗した派閥は「反革命分子」とレッテルを貼られ、党籍を剥奪され、これからの政府公文に二度と「同志」を呼ばれることがなくなる。同じようにほかの国に対しても、中国共産党は相手に「同志」の呼び方を使うかどうかは、両国がまだ同じ陣営にあるかを反映している。 

 「同志」という呼称は国民の個体としての特徴を反映することもできなくて、一員の公民としての意味を反映することもできない。国民の上を凌ぐ組織―中国共産党に対する服従しか反映していない。多くの「同志」は正常な社会を構築することができず、集団と宗教しか構築できない。この集団は国家政権を握って、強制手段で人心をコントロールして、社会をカルトのような密封体系にさせる。これで、どうして中国共産党の歴史上、みんなが「同志」の行列に割り込むために反対派に「敵」のレッテルを貼るのを、理解できるだろう。 

 幾万回も「同志」という呼称を用いて「呼んで、応答する」を実践したため、それが強烈な暗示誘導作用を持ち、人々は中国共産党の集団の中で徐々に意識の共有を深めていった。「中国共産党に対する九つの論評』に中国共産党のカルト本質を暴きだし、「同志」という呼称はこのカルト集団がその信者に対する呼び方とコントロールする道具だと暴きだした。国民が「同志」と呼ばれる時に否定しないかぎり、カルト信者の身分を認めて、カルトの無形のむちを強化するのと同然である。 

 「経済改革」が中国で行われて以降、共産党、政府、軍隊の内部公文に依然として「同志」の呼称が使われているが、一般人の生活に使われる頻度が減ってきた。一般国民はこの政治色の強い呼称の代わりに「さん」、「女史」、「お姉さん」、「師匠」などを使っている。しかし、日常生活に冗談を言う時に「同志」が使われることもしばしばある。例えば、言うことの聞かない娘に「小さな同志よ、ちゃんと聞いて」、友達の集まりに「同志たちよ、乾杯」、人に手伝ってもらう時に「みんなは革命の同志だよね」とか。一見「同志」に新たに気軽な使い方を与えたに見えるが、「党話」はこれ以上深くならない一般国民の生活に浸透していた最大の証拠である。人々が「同志」という言葉を好んで使うかぎり、それが無意識なものであっても、中国共産党の「志」と同じくしているのであり、中国共産党の言語系統と独占権力を支えることになるのである。 

2. 典型的な「党八股」用語

  上に列挙した「同志」は、ただみんなが慣れた「党話」の一例にすぎない。ほとんどの中国人は幼いころから党文化が作った言語環境に生活していて、「党話」に慣れて、何の不自然も感ぜず、言いかえれば、世の中の正常な人間はすべてこのように話すと思っている。 

 しかし、それは事実ではない。党話は中国共産党が自分の統治を維持していくために故意に作って普及させたもので、非共産主義国に「党話」を使う必要がないし、共産党到来前の中国で人々はこのように喋ったわけでもない。数十年間の高圧統治と密封を通して、共産党は中国人の思惟方式と行為習慣を変えただけでなく、中国人の言語系統をもすっかり変えた。現在の中国で、人々が使っている言葉の大半は共産党に改造され、若しくは作られた言葉となり、その上とても自然に使用されている。

 次に典型的な「党八股言葉」を分析しよう。前もって説明しないといけないのは、党話の中の語彙はすべて共産党に作りだされて、あるいは共産党社会の特有のものとは限らない。特定の意味を注入されて、それに共産党の統治に利用される言葉をすべて党話の類にしていい。

 例えば「団結」は通常、ばらばらの個人が共通の目標のために結合する意を表して、他の外国言語にも類似した言葉がある。しかし、党文化の闘争哲学では「団結」に特定の意味が注入された。「団結」の対象者は政治上では中国共産党の「身内」にも属さないが、敵対陣営にも属さないものである。例えば、いわゆる「民主派」は中国共産党の「団結」の対象である。党文化で「大多数を団結する」の隠された意味は、「きわめて少数の○○分子」は「団結の対象」でなく、打撃と闘争の対象であるという意味である。中国共産党の会議を「団結する大会」と公表するのは、会議に反対意見がまったく出ていないのでなく、「○○をはじめとする共産党中央」は今回の政治闘争の「勝者」で、反対意見の持ち主がすでにやっつけられたことを意味している。つまり、党文化の中で「団結」はすでに闘争哲学に利用されて特定の意味合いを注入されたので、党話の言葉と思うのが適切である。

 (続く)

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