高智晟著『神とともに戦う』(15) 我が平民の母(4)

【大紀元日本12月26日】中国北西部、黄土高原の厳しい冬は、その年初めての強い北風とともに、規則正しくやって来る。他の家の子たちが家にこもっている頃、我が家の子たちは野山をめぐっては焚き木を拾った。炭を買う金がないからだ。貧しさと厳しい自然、そして母の辛抱強さ、これらが、我が家があの時代を生き延びる基礎を築き上げたのである。1977年の後半、私にとって3年に及ぶある日課が始まった。母は、私を中学に上げる決意をしたのである。

 母の棺の前に腰を下ろし、あの3年間の中学時代を振り返ると、私の心は際限なく痛む。母は、辛抱と忍耐そして想像を絶する責任感で、私を支えてくれたからだ。この母のもと、私は3年の中学生活を無事に終えたのだった。

 私が通った古城中学は、我が家から5キロほどの小高い山の上にあった。当時私は小さかったから、5キロの道のりに1時間半近くかかった。寮に住むと毎日8分(0.08元)の食費を納めなければならない。だから母は私を励まして通学させた。ここから3年間の、合わせて1万8千キロに及ぶ通学生活の幕が開けた。

 この3年、実際母は、一晩まともに寝たことなどなかった。私は毎日、夜明けには学校に着いていなくてはならない。通学には1時間半かかるが、起床し食事を取るのにも1時間は要る。すなわち、この3年間、毎晩2時間半も削られたのだ。この眠れない2時間半は、私にとっては、単に起床後の時間にすぎない。だが母が奪われた睡眠時間は、これをはるかに超えるのである。

 当時、村には置時計や掛け時計、腕時計も一切なかった。だから夜に時間を知るためには、いつ始まったかも分からない原始的な方法を用いた。つまり夜空の観察だ。私が寝入っている時、毎晩何度も外に出ては星空を見て、時間を判断するのが母の常となった。曇りの夜、母は寝ようとさえせず、感覚を頼りに時間を判断した。それはこの3年間、雨の日も風の日も途切れはしなかった。母の責任感と犠牲が支えとなって、私はこの3年間一度も遅刻がなく、もちろん、授業をさぼることもなかった。

 私は私なりの方法で、母に応えた。この3年、使える時間は全て勉強に費やしたのだ。勉強は3年間の私の日常となり、あらゆる時間を活用し、知恵の限りを尽くして勉強に励んだ。当時、労働と引き換えに他人から小説や書物をもらったことは、今となっては笑い草になっている。

 私の成績と言えば、50名余りのクラスで上位3位から漏れることはなかった(もちろん、私の腕白ぶりも全校では屈指だった)。その後、県の難関高校に受かったものの貧しさゆえに、中途退学を余儀なくされた。だが、この3年の学業生活が、私の人生の値打ちの中に、最も重要な基礎を築いたのである。3年の中学生活が私の人生に果たした役割は、何物にも換え難い。この後の長年の独学に、多くの要素や方法、可能性をもたらしたからだ。3年の学業生活とその価値は、母と私が共に創り上げて行ったものであった。

 (続く)

転載大紀元 エポックタイムズ・ジャパン

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