【党文化の解体】第5章(1)

(大紀元)

【大紀元日本7月8日】 

まえがき

 中共による統制下の中国では、異様であることが多い。印象深いものを一つ挙げれば、各種のスローガンが満天に溢れていることであろう。ネットユーザたちが集めた「スローガン集」には、計画出産、犯罪取締り、封山育林(閉山して植林する)、義務教育の普及等等。このほか、色々な政治スローガン、その粗暴野蛮さや出鱈目さは、目をみはり言葉に詰まるほどである。しかし中国人は何十年もこのような環境の中で生活していたので、これは人類社会の常態であると思い、世界各国も同じ類であろうと思えば、奇怪なことを見ても怪しいと思わなくなった。

 共産党が、文芸・文化宣伝においてこれほど宣伝スローガンの役割を重視してきたのはなぜだろうか。その原因を見れば、以下の二点に他ならないだろう。第1点、スローガンというものは、短く、すらすらと口をついて出やすく、イメージしやすく、覚えやすく、直接的であり、効果が持続的である。第2点、スローガンは往々にして短く作られているので、複雑な論証過程を含めない。そのため、共産党が宣伝した理論政策自体の誤謬や誤り、是に似て非である内容が隠されてしまい、気付きにくくなっている。

 次のような一組のスローガンがある。この組のスローガンは中共の何十年の暴政史を貫いている。これらのスローガンは中共の集団的目標を集中的に表している。中共はかつて大いに力を注いで度重なる宣伝を繰り返すと同時に、各種文芸形式を利用して誇張してきた。国内・国際情勢が変化してきたにもかかわらず、これらスローガンは時には看板を塗り替えて、異なった多くの形式で現れ、その精神的本質はちっとも変えず、その目的は民衆が共産党に対する依頼と順従をより強固なものにさせ、共産党の一党独裁政権を維持するためである。

 この組のスローガンは次のようなものである。
 「共産党がなければ新中国はなし」
 「父母と言えども、毛主席ほど親しくはない」
 「共産党の話を聞き、共産党について行け」
 「党に言われた通りにやれ」

 すでに第3章の中で共産党の洗脳手段を論じてきた。宣伝機関、文学作品、教科書、映画、演劇、歌舞、大衆演芸などの文芸形式は皆一種の楽器のように、中共が党文化を植え付けるための道具として使われてきた。当然、具体的な創作者は、時代や当時の社会の事情、経済体制の変化により、使用する素材は異なるし、創作された作品も異なるかもしれないが、これらの「楽器」から演奏された曲のメロディは千差万別かもしれない。しかし、表現するメーンテーマは上記の4句のスローガンと一脈相承である。具体的の種々の現像からそれらのメーンテーマや表現しようとする本質へ振りかえてみれば、上記の4句のスローガンはすべての宣伝の中で頻繁に現れる党文化の高度集中的総括であり、宣伝の中で頻繁に現れる党文化の創作指導綱要ともなっている。宣伝の中で頻繁に現れる党文化の色々の表現の本質を理解しようとすれば、上記の4句のスローガンをまず分析しておく必要がある。

1.「共産党がなければ新中国はなし」
  1)歌声と嘘

 「共産党がなければ新中国はなし/共産党は民族ために辛労を尽くし/共産党は一心に中国を救おう/(共産党)は民衆に解放の道を導いた/中国の明るい未来への邁進を指導する/抗日戦争を8年も堅持した/民衆の生活を改善した/敵後根拠地を作り上げた/民主を実現し良いことが溢れ」

 極めて広く伝えられたこの曲は、1943年に創作されたものである。当時の歌詞は「共産党がなければ中国はなし」であった。1950年毛沢東は「中国」の前に「新」を加えて、歌詞は今日のようになった。

 この「新」という文字は、大変吟味する値がある。当時の中国人は、皆中華民国時代の生活を経験した人ばかりであるため、「共産党がなければ中国はなし」と言ったら、これらの人の人生経歴と一致しないから、信服されないだろう。これはその一つの理由。今一つ重要な点は、共産党の歌詞の中で、「新生物事」と言う表現は特定の含意を有する名詞である。もし何物が新生物事であると言ったら、これは必ず歴史潮流に合致するものであるということになる。必ず「強固な生命力と遠大たる未来を持っている」。同時に、その中にある欠陥と言うものは、すべて「新生物事の未熟の一面」がある故にもたらした結果であるから、確定しない未来においては、これら欠陥は遂次克服されると言うのだ。共産党も確かにこのように自己弁護してきた。

 この歌が創作された歴史的背景は、1942年、国民党政府を指導し全面的抗戦を行ってきた蒋介石が「中国の運命」と言う書物を発表した。その中で、「国民党がなければ中国はなし」と言う表現があった。延安で「整風運動」に夢中している共産党は真っ向から「共産党がなければ中国はなし」の社説を発表した。曰く「共産党こそ抗日戦争の中流柱」である。したがって、この歌の中心的の内容は「中共は全国民を指導し日本侵略者を破った」のである。

 より多くの歴史的資料からすでに明らかにされたように、「抗戦を指導」したのは中共の主観的願望でもなければ、客観的事実でもないことである。大敵を直面する喫緊のとき、中共が本当に関心を持っていたのは如何にこれを契機に自己を発展し勢力を増していき、最終的に政権を奪うことであった。中共は名目上においては「抗日民族統一戦線」を作り、世論で人心を買収すると同時に暗に「一分を抗日、二分を国民党に対抗、七分を自己の勢力を拡大」したのであった。酷いのは侵略日本軍と暗に好意を示し、アヘンの密売までも行ったことだ。指摘しなければならないのは、抗日戦争は1931年の九・一八事変からすでに始まり、合せて14年間、国民党は1932年に「一・二八淞瀘抗戦」し、1933年には長城抗戦を行った。しかし中共は九・一八事変のわずか2ヶ月後、江西で割拠政権を立てた。中共はいつも「抗戦を八年堅持」したと言うが、この事実を見れば、1931~37年の間中共はまるで抗戦しなかったことを読み取れる。

(大紀元)

中国大陸で出版した「劉少奇年譜」によれば、中共の江南地区の最高指導者である劉氏であるが、彼のすべての軍事令、報告には抗日に関する内容は一つもないことに驚かせる。その内容はすべて如何に国民党と対抗しそれを分化させるかに集中していた。中共が参加した所謂大型会戦は「平型関会戦」と「百団会戦」のみである。「平型関会戦」について言えば、中共は根っから「今回の会戦を指揮する指導者と主力」ではなく、敵軍の補給部隊を待ち伏せ攻撃しただけである。今回の会戦は抗日戦争始まって以来の初の勝利戦であると、中共に自慢されたが、しかし中共による歴史の記載資料では、第二回、第三回の勝利についてはちっとも言及していなかった。なぜならば、中共が参加した比較的大きい会戦はわずか上記の2回会戦のみである。「百団会戦」は中共の内部で党中央の戦略方針に違反したと看做され、彭徳懐の「罪状」の一つとした。1959年の廬山会議においては、毛沢東は再度この件で彭徳懐攻撃報復した。「一部の同志は日本軍の勢力範囲が小さければ小さいほどがよいと思い込んでいるが、後になってやっと認識を統一した:日本軍に多くの地を占領させたほうが愛国であり、そうでなければ、蒋介石の「国」を愛することになるのだ。」「我々の戦略は、正しく国民党と日本軍と死ぬほど戦わせて、そのうち我々が壮大発展していくのだ」。1972年、毛沢東は来訪した田中角栄首相に、「貴方は謝る必要がない、もし貴方がここへ来なければ(侵略)、我々共産党政権が存在しなかったはずだからだ」。中共は本当に積極的に抗日なのか、それとも積極的に日本侵略を支持したのかを、毛沢東のこの話の中からその答えは一目瞭然であろう。

 中共による「人民英雄記念碑」に刻まれた碑文も中共の抗日の態度をよく説明できる:「三年来、人民解放戦争と人民革命において犠牲になった人民英雄は朽ちることなく永遠である!三十年来、人民解放戦争と人民革命において犠牲になった人民英雄は朽ちることなく永遠である!」明らかに、中共の本当の敵人は国民党である。八年間における中華民族の外来侵略に対する血まみれの対抗奮戦については、中共はちっとも言及したくない。中共党史研究室、国家文献資料局が主宰する「民族魂」ネットでは、羅列した「抗日戦争期」の犠牲者リストのうち、大多数の人が国民党との戦いにより死んだ人で、ただ時間的には「抗日戦争期」に過ぎないのである。中国人がよく耳にしている戦闘英雄董存瑞、邱小雲、黄継光等は抗日戦争で犠牲になった人は一人もいない。

 中共と鮮明に対照となるのは、毛沢東に「山から下りて桃を摘みに来た」と咎められた蒋介石の国民党は、1937~45年の間、国民革命軍を指導し、正面戦場で日本軍と直接戦った戦闘のうち、小型戦闘38,931回、重大会戦1,117回、大会戦22回を経て、犠牲になった高級将官は200名以上、死傷人員は330万人に及んだ。台児荘、淞瀘、長沙、独山など正規戦、上海筧橋など空戦では日本軍に大きな衝撃を与え、困難を乗り越え、卓絶な努力により、最終的に国を守る戦争に勝利を収めた。

 共産主義の理想たるものが人心を惑わす力が一切失った今日、中共は返って民族主義の旗を大げさに振る舞い、中華民族の正統たる代表と自負し、それ故に「抗日戦争の中流柱」と言う桂冠を絶対手離さないのである。しかし事実の真相は、全国民が誠心誠義に協力し合って、外来の敵による侵略に対抗しなければならないとき、中共は祖国と人民を裏切りし、恥ずべきものであったのだ。

 (続く)

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