【党文化の解体】第3章(18)

文革中には、中高生たちは何の罪悪感も感ずることなく校長や先生を折檻した。校長「私は妖怪変化の如き悪者です」(イラスト=大紀元)

【大紀元日本9月6日】

3.邪党の文化人を利用して悪党を賛美する
2)中共の世界観、歴史観、人生観を注入する
(1)神に対する信仰を批判し、無神論を注入する

 無神論は中共思想の基礎であるが、各正統文化は皆、神の存在を信じ、多くの深みのある傑出した文学作品は、神を描写し、神を謳歌し、神の存在を探究したものであった。ギリシャ、ローマの神話、ダンテの「神曲」、ミルトンの「失楽園」、バニヤンの「天国への道程」、中国の「西遊記」など枚挙にいとまがない。このため、中共は一方では文化人を操って、物質崇拝、暴力崇拝の文学作品を作り、他方では御用学者を操って、有神論文学を改ざん、削除、曲解した。そして、宗教は「精神的なアヘン」だということになり、天国地獄は「封建的な迷信」となり、神話や伝説はまだ人間社会が生産力において未発達な時期の、自然に対する恐怖の表れであるかのようにとらえられ、孫悟空と失楽園のなかの悪魔は、無産階級(プロレタリア)と抑圧を受けた者のシンボルとなった。

(2)伝統的観念を打破して、階級的な怨恨を注入する

 中国の伝統的な詩は、「怨んでも怒らず、哀しくても傷つかず」を重んじることを教えており、よしんば哀しく恨めしく傷ついたときでも、自らの情緒を制御し、平和かつ中正に帰するものであった。中国古典文学の中には、忠孝の節義や美しい肉親の情、友情を描いた作品が充満している。古代ギリシャの哲学者・アリストテレスは、悲劇の作用とは内心に積もったものの吐露であり浄化であると認識し、古代ローマの文学者であったホラティウスは、文学の効用は教育と娯楽にあると考えた。世界各国の文学作品が仮に仇討ちをテーマに描いていたとしても、その多くは勧善懲悪の角度から描いたものであって、恨み辛みを煽動することと伝統文学の特色とは相容れないものである。

 しかし、中共の理解によると、「ある階級が勝利すると、ある階級は消滅する。これが歴史である」、「階級闘争は、歴史発展の真の原動力」、「誰が我々の敵なのか?誰が我々の友なのか?これが革命の主要な問題なのだ」である。このため、階級的怨恨を注入し煽動することが中共文学の主要な任務となった。怨恨が、人類史上で初めて正面に据えられるべき言葉となった。

 「この18歳の女奴隷の黒い瞳、炎のような大きな目には骨に刻む怨恨が燃えていた!」

 これは映画の台本「紅色娘子軍」のエピローグである。このシナリオを叩き台にして改編した舞台演劇のシナリオではさらに手が加えられ、怨恨に対する洗脳の度合いが極度にまで高められていた。「彼女は頭をもたげて胸を張り、その双眸は憎しみの烈火に燃えている」、「彼女らはこぶしを握り締め、胸いっぱいの憤慨を訴え」、「心中には強烈な階級的怨恨が燃え盛り」、「軍事訓練は階級的怨恨で充満した殺気で結束し」、「苦しみは大きく、仇は深い」、「血の海のように仇は深く」、「仇を討つ」…舞台劇の主人公は大方20歳未満の可憐な少女が多く、人間性の欠片(かけら)もない冷酷非常な殺人兵器に描写された。

 さらに恐るべきことに、相当な長期間、中国人の精神生活は極度に貧しくなり、これらの人物像が年少の少年少女たちが憧れるアイドルとなったのである。文革中には女子中高生たちが先生を皮ベルトで折檻して死に至らしめ、広西省では「階級の敵」が、心臓や肝臓を取り出されて食べられ、それを食べた者は何の罪悪感もなく、それらは多分に、これらの怨恨文学が生み出した代物(しろもの)なのである。

文革中には、中高生たちは何の罪悪感も感ずることなく校長や先生を折檻した。校長「私は妖怪変化の如き悪者です」(イラスト=大紀元)

(3)歴史上の暴君、小人、流賊と暴徒を美化

歴史を捏造し、真実を隠して洗脳するのが、中共の一貫したやり方である。(イラスト=大紀元)

共産党は自らを「歴史発展の必然的産物」、「中国人民の必然的選択」と粉飾する必要があったため、歴史を全面的に改竄し、歴史上の暴君、小人、ゴロツキや暴徒らを「歴史を前進させた原動力」としていいくるめた。そこで、中国の歴史上で定評ある大悪人たちが、中共によって恭しく祭壇に祀られることになった。暴虐であった商の紂王、秦の始皇帝、恩知らずの商鞅らその全ては中共が祭り上げる対象となった。中共は農民戦争の頭領を先駆けとし、残忍な人殺しで暴虐極まりない、黄巣、張献忠、洪秀全らを中共文学に好ましいイメージとして殿堂入りさせた。ここではそのほんの一端を例として見てみよう。

 明末の匪賊の頭目の一人であった張献忠は殺人を好む残虐非道な者であった。当時の四川省の人口は、彼の各種の殺戮方法によってほとんど殲滅され、生活の豊かで天国のような所が人間界の地獄となった。

 1982年に茅盾文学賞を獲得した長編歴史小説「李自成」の第一巻下冊のプロローグでは、田園の詩を思わせるような優雅な文体で、「絶えず戦乱によって被害を受けていた山里一帯は、張献忠の農民軍がこちらに駐在してから、多少平和な気象をみせた」と描写されている。

 当然、これらの歴史人物を美化することが目的ではない。これらの歴史人物を美化した後、中共は正々堂々と自己を美化し始めるのである。

(4)人間性をけなし、党性を謳歌する

 中共の文芸理論に関する著作を見てみると、容易に奇怪な現象を発見することができる。それは「人間性」という言葉が貶義語として使われていることである。もし作品が「人間性」を表現していたら、それは失敗作とみなされ、甚だしきは反動的な作品とされる。これとは反対に、一部の作品が階級性を表現していたら(階級の敵に対する怨恨、階級的な兄弟愛)、それはいいものであり、進歩的な作品とみなされる。父子の情、母子の情、愛情、友情、同情心など、普遍的な「人類愛」を表現する作品は貶され、党性が人間性に勝る表現をした、プロレタリアートを認識させる作品は表彰される。

 こういったロジックから作り出された英雄人物は普遍的に「高」「大」「全」である(ある作品の主人公はまさに「高大泉」という。訳者注=「全」と「泉」は同音)。そのイメージは高くて大きく、智勇を兼ね備え、人間の能力がずば抜け、党に対する忠誠心は赤々と燃え、敵に対する恨みは骨髄にまで達しているというものだ。そして敵役のイメージは、卑しく、残虐で狡猾である。そこで、善玉の姓は「高 gao」「梁 liang」となり、敵役の姓は「刁 diao」(ずるい)となる。

 ある短編小説では、ある地区で塩がひどく不足したことが描かれている。若い母親が野菜の塩漬けを「党費」として地下党組織に納めようと、やせこけた小さな娘に塩漬けのサヤインゲンを持たせて使いに行かせようとするのだが、その子供が泣き出すというストーリーだ。この母親は「党」を家庭と親の情の上に置いているということで、党文学の評価を得た。

 中共の文学作品の中で描かれる女性のイメージは、性別の特徴が少しもなく、苦しみが大きく仇は深く刻まれ、意志は鋼のように堅い。愛情は資産階級のレッテルを貼られ、中共の文学作品の中では完全に欠落するか、あるいは「革命事業」を際だたせるための「壮麗で偉大」なものとして処理される。もしある男性(女性)主人公に愛情が芽生えたら、相手は壮烈な犠牲を強いられ、そして主人公は悲憤をエネルギーに変え、継続して革命の「渾々とした奔流」に身を任せるのである。主人公が愛情によって結ばれるのは革命文学の一大タブーである。なぜなら一旦家庭を持つと、こまごまとした日常生活は「革命家の闘志を腐食させる」ため、中共は「革命を続ける」、「絶えず革命を行う」ことができなくなってしまうからである。

 中共の御用文化人は「主題先行」の創作原則を信奉しているため、中共から毎回何らかの新しい需要があると、状況に合わせた文学作品を大量生産するのである。以上挙げた例は、ほんの氷山の一角に過ぎない。

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