≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(3)

著者の母(写真・著者提供)

この結末を聞いて、私はとてもほっとしました。母は私に、「みんなが互いに助け合い、励まし合えば、どんな困難をも克服できる勇気と自信が生まれる。そうすれば、きっといい方法が見つかり、生きていけるはずだ」と教えてくれました。そして、「これから生きていく中で、どんなに大きな困難と災難に遭っても、“希望”を捨ててはいけない。どんな時でも、なんとかして生き続けなくてはならない。“希望”さえ持っていれば、最後にはきっと願いが叶うはずだ」とも話してくれました。

 母がこの物語を語ってくれた時、私はわずか8歳で、しかも終戦後、日本に戻ることができず中国に残ったため、あっという間に日本語をきれいさっぱり忘れてしまいました。しかし、この物語のストーリーは、今もなお鮮明に覚えています。まるで、映画のシーンのように脳裏にしっかりと刻み込まれ、幼ないときのいろいろな体験と同じく、印象深く、今でも鮮明に眼前に浮かんできます。

 あのとき、母はどうしてあんな物語を話してくれたのかわかりません。暴風雨の恐怖があったからか、それとも、母が将来の運命を予感したからだったのか、今となっては知るすべもありません。しかし、後に様々な突発的な災難に直面したときに母がみせた強さと冷静ぶりは、驚くほどのものでした。まるで、まもなく何が起こるかわかっており、私にあらかじめカンフル剤を打ってくれたかのようでした。そのおかげで、私は最も悲惨な幼少期をなんとか乗り切ることができ、ついには生きて故国日本に帰ることができたのです。

 母が話してくれた物語は、私にとっては驚きでしたが、最後はハッピーエンドで終わりました。しかし、私の運命はスタートしたばかりで、どれほどの荒波が私を待ち構え、どんな結末があるのか、わずか8歳の私にはまったくわかりませんでした。私は流れに身を任せ、定められた人生のレールに乗って一歩一歩進むほかありませんでした。

 船の旅がどれぐらい続いたころだったでしょうか、母が眠っていた私を起こし、朝鮮半島に着いたので、陸に上がって一日休むことができると言いました。私はうれしくて、すぐに起き上がって服を着て、船から降りる準備をしました。船はまだゆっくり進んでいましたが、もうまったく揺れることもなく、立ち上がって自由に歩けるようになっていました。興奮のあまり、めまいもすっかり治り、私はたちまち元気になりました。

 この日は快晴でした。太陽が東の地平線からゆっくり昇り始めたときで、穏やかな海面を照らし、一筆のまばゆい赤色を塗りつけたかのようでした。とても美しく、とても静かで穏やかで、暴風雨の物語はまるで昨日の悪夢のように、一瞬にして脳裏から消え去りました。私は待ちきれずに船倉から飛び出すと、強烈な陽光が目に眩しくて、目を開けていられませんでした。しばらくしてゆっくりと目を開いてみると、私たちが乗っている船は静かに海岸に向かっていました。

 海岸沿いには大きな港湾都市があり、山の斜面には長屋がいくつも雑然と並んでいました。東京を離れて随分日が経ち、その上ずっと暴風雨の海を航海してきたため、こんなに大きな町が突然目の前に現れたのを見て、私はとても新鮮でもの珍しく感じました。

 さらによく見てみると、道行く女の人たちは、その多くが荷物やバッグを頭の上に載せていました。大きくて重そうな甕を載せている人もいれば、頭より何倍も大きな箱を載せている女性もいましたが、彼女たちはみな、片手で軽く支えているだけで、軽やかに歩いていました。このような民族風習の人たちを見るのは初めてで、とても珍しく、面白く思いました。私はまるで、自分が母から聞いたおとぎ話の中にいるような気持ちになり、船から降りるのを忘れるほどでした。

【2009年1月7日】(つづく)

転載https://www.epochtimes.jp/jp/2008/01/html/d59081.html

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