我の話ー争いのもとは「我」にあり【動画】

【脱党支援センター2020年8月29日】

【冒頭の詩】
自我を無理に通すのは
騒ぎやトラブルのもと
皆は我のため、我は皆のため
他人を優先すれば天地も広々
小さな私を犠牲に、大きな自分ができる
無私無我で正果が成る

【あらすじ】
中国のことわざに「目で見えるものこそ確か(眼見為実)」がある。一方、「目で見えるものが真実だとは限らない」ともいう。

例を挙げてみよう。今、周りを見回せば、いたるところ争いだらけだ。子供のけんかから大人同士のいさかい、さらには国同士の紛争まで、実にきりがない。「これらを解決する方法がある」と言ったら、人は笑うだろう。だが、実は複雑そうに見えることこそ単純で、難しく思えることこそ単純だともいえるのである。

まず、これらの争いの原点に立ち戻ってみよう。元をたどれば、「自分」すなわち「我(われ)」が良い思いをしたい、「我」の利益や名誉を守りたいなど……。つまり「我」へのこだわりが原因なのではないか?ならば、「我」へのこだわりを思い切って捨ててみよう。すると、「我」のために争っていたことが馬鹿馬鹿しく思えるはずだ。なぜなら、争う意味がなくなるから。このとき、目の前には全く違う世界が開け、天地の広さに新鮮な驚きを覚えることだろう。

では、「我」の字を見てみよう。実はこの「我」は象形文字において、非常に攻撃性の強い武器を表していた。もし、そんな鋭い武器にしがみつき、決して手放そうとしないなら、もちろん争いがやむことはない。逆に言えば、「我」を捨てることこそ、争いを収める鍵ではないだろうか?

転載新唐人

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