『共産主義の最終目的』 第六章(上)「憎悪」を国家の支柱とする

【脱党支援センター2020年8月25日】

『共産主義の最終目的』 第六章(上)「憎悪」を国家の支柱とする
『共産主義の最終目的』 第六章(上)「憎悪」を国家の支柱とする

序 

「憎悪」を国家の支柱とする共産党

共産邪霊は主として「憎悪」によって構成される。「憎悪」は物質的存在で一種の生命であり、生命力をもつ。つまり、「憎悪」は共産邪霊を構成する根本的要素である。

「憎悪」は怨恨(えんこん)と異なる。怨恨は怨(えん・憎いと思う気持ち)が有って恨む。原因や理由があるがゆえに現すのに対し、「憎悪」は何の原因も理由もない。サタンのイエス・キリストに対する「憎悪」やマルクスの神に対する「憎悪」は邪悪の極まりの「憎悪」である。これは邪悪の命の維持、救世主への嫉妬、不倶戴天(ふぐたいてん・同じ天の下には生かしておかない意でそれほど恨みや憎しみの深いこと)の敵としての敵視、打倒し壊す意欲をもつ凶悪感情と腐敗物質である。

「憎悪」は神への反対と神の排除をもたらす。宇宙に存在するあらゆる生命は、それぞれ異なる次元があり、神は次元の高い生命であることを認めるがゆえに神を敬う。しかし、サタンは「憎悪」と嫉妬をもち、神が自己より次元の高いことを認めず、神に挑発したため下界へ撃ち落とされた。

共産邪霊は「憎悪」によって構成されている。また、苦心してそれを人々の心に注ぎ込み「憎悪」の物質的要素を人々の体のミクロの世界へ注ぎ込み、人々の生命の組織部分と化した。人々の人間性の中にある悪の部分、例えば嫉妬、争う、暴虐(ぼうぎゃく・むごいこと)、殺しを好む等がかき立てられてしまうのである。そのため、共産中国の物質的場の中で、すべてと言ってよいほどの人々がこの「憎悪」に包まれてしまい、ほとんどの人は全く自覚しない「憎悪」をもってしまうのである。共産邪霊が扇動、挑発すれば、すぐにも噴出しそうになるこの物質は、巨大な負のエネルギーと化し、人々の生活空間を素早く覆うことになる。「憎悪」は原動力として、暴力と殺戮(さつりく・むごたらしく多くの人を殺すこと)を催す。1870年代、ならず者により興(おこ)されたパリ・コミューン(パリ市の革命自冶体)は、共産主義者が暴力による政権奪取の理論を初めて実践し、マルクス、エンゲルスからその後の共産党党首レーニン、スターリンおよび毛沢東により再三誉めそやされるほどである。マルクスはパリ・コミューンの「経験」を総括する時、その失敗の原因は、まさにプロレタリアート(無産階級)の暴力で国家権力をぶち壊さなかったところにあるという。「プロレタリアートは単純に政権を奪取するだけでなく、暴力により現存するすべての制度をぶち壊さなければならない」。これこそが後になって、共産主義の根本的立場として祭りあげたプロレタリアート独裁暴力学説である。「憎悪」を推進したことにより、中国共産党は、「プロレタリアートによる独裁政権の下での継続革命」を推し進めた。

この「憎悪」は、共産主義の根本的源となる。この「憎悪」は嫉妬心と緊密に関連する。また、嫉妬心から絶対的平等主義を生み、すなわち、他のいかなる人も自分より良く、富むことを許さず、すべての優秀な人や出類抜萃(しゅつるいばっすい・才能などがずば抜けてすぐれている)の物事に恨みをもつ。共産主義が鼓吹(こすい)する「人々の平等」「天下大同」はまさにこの「憎悪」の現れである。多くの中国人が子どもを教育する時、向上するようにと人々を鼓舞する時、大抵人々の嫉妬心を唆(そそのか)す方法を用いて、「他人が自分にかなわない」ことを向上の原動力としてあおぐ。

共産党は「憎悪」をもって立国し国を治める。その大げさに宣伝している「愛国主義」は、実をいうと、「憎悪主義」である。「党」の辞書の中での「愛国」とは、米国を恨む、西側を恨む、日本を恨む、台湾を恨む、チベットを恨む、自由社会を恨む、普遍的価値観を恨む、「真・善・忍」を修める善良な人を恨む、中国共産党のいわゆる「敵」を恨むことを意味する。「愛党」とは、自己に挑戦してくる一切の人と物事を恨むことを意味する。

この「憎悪」は邪霊を構成する物質的要素であることや、邪霊により強制的に人の体に注ぎ込まれたことを、人々は知らないだけでなく、原因や理由もないこの「憎悪」を自己的感情と誤認しているほどである。この「憎悪」の物質は、今日の多くの中国人に暴虐の気質をもたらした。いかなる時にもいかなる場面でも爆発する可能性があり、その強度や大きさ、表現の悪毒さは、本人でさえ驚愕し不可解になるほどである。

中国共産党は、教育、メディア、芸術などさまざまな手段を通して、この「憎悪」の物質を広くまき散らす。若者や学生、民衆を貪欲的、悪辣(あくらつ)的、悪毒的な守るべき境界線をもたないろくでなしの狼子に変えてしまう。

1989年の天安門事件後に登場してきた江沢民はまさにこの「憎悪」の生まれ変わりである。『江沢民其人』という本の中で、彼の出どころを明らかにしている。秦王李世民(後の唐太宗)の弟李元吉はその兄李健成と手を組み玄武門で李世民の暗殺を企てたが、失敗に終わった。李元吉が死んだ後、その悪霊は自らの罪を償うため、生きることのない門に打ち込まれ、無間地獄(阿鼻地獄とも呼ばれる)にほうりこまれ、千年も時間をつぶしてからは、もはや先天的生命の形骸(けいがい)を具(そな)えず、整った考えももたず、嫉妬して恨むこと一筋の邪気しか残っていない。しかし、まさにこの一筋の邪気が千年を待った末に、共産邪霊に気に入られ、江沢民に転生した。中国共産党の党首になり、と同時に、「真・善・忍」を修める法輪功を迫害する悪の元凶となった。

「憎悪」は一種の物質である。「憎悪」から生まれる行為は、混とんとして、理性を欠く、ほしいままにふるまって何らはばからず、狂気的でいかなる結果も計らないものである。共産党はこの「憎悪」をもって世界を征服し、人類を含むすべてを滅亡させるが、この過程において共産党自身も壊滅させられるのも必然的結果であろう。これこそが共産主義の究極の目的とその実現方法である。

1.超邪悪な拡大装置

 数十年にわたる「憎悪」を中心とした政治運動「無神論の宣伝」「天と戦い地と戦う」「階級闘争を要とする」「怒りに燃えて糾弾する」「深く暴き出し批判する」、今日はこれを打倒し、明日はあれを打倒する。普遍的価値である真・善・忍に対抗する。これは一体中国にどれほどの傷を残しただろうか。人々が目にするのは、誠実と信用の不在、人心が険悪で古人ほど純朴ではなくなり、環境汚染、道徳の墜落である。しかし、人々がしばしば目に見えないのは、中国共産党により作り上げられた道徳を墜落させる恐ろしい仕組み、いわば「邪悪拡大装置」、すなわち邪悪を拡大させる装置である。この装置の基本を成すのは、「無神論」、「善悪に報いがあり」への不信、伝統的価値観の排除、「欲望」を鼓吹するなどが挙げられる。ここでは、この拡大装置の働き仕組みを簡単に説明する。

 第一に、中国共産党は中国を世界的な道徳的墜落の谷間に変えた。言い換えれば、道徳的漏斗(じょうご)、すなわち道徳上における窪地に変えたことである。中国から各種の道徳的墜落を繁殖させたのみならず、世界中の良くないモノも中国へ流れ込ませた。中国はまるで国際的な巨大なゴミ箱と化している。この言い方はあまり慣れないかもしれないが、これは中国共産党により作り上げられた既成事実である。中国は世界に向けて門戸を開いたのち、麻薬、性的乱れ、同性愛、各種異変な思潮や行いなどが絶え間なく中国へ流れ込む。中国共産党により作りあげられた各種道徳的墜落に、これら外来のゴミを加えて、中国社会に複雑な乱れた道徳的様相が現れいる。

 第二に、中国共産党により作り上げられたこの「邪悪な拡大装置」は、各種の乱れた道徳的様相を拡大、拡大、再拡大していく。伝統の文化的要素の中にある「神」からの制限もなければ、現代的社会における法治精神も持たないため、すべてが「欲望」によって駆使される。その結果、自ずと今までより一層堕落していく。例えば、性の解放というのは、ある種の変異した思潮として、1960年代西側諸国で現れてきたが、しかし宗教的保守主義からの制約により、一度放った矢は回収できないような事態には至らなかった。中国共産党は中国の門戸を開いてからは、性の解放の思潮も中国へ流れ込んだだけでなく、無数倍に拡大され、まるで社会の主旋律の如く、売春婦は至るところに蔓延し、貧しきを嘲笑し、娼婦を嘲笑しない風潮が社会全体に蔓延(まんえん)した。1番目、2番目、N番目といったような愛人作りは、共産党幹部の見せびらかしで自慢の盾である。上から下まで社会全体が競うように真似し、中国全土が混乱し悪に満たされていった。中国共産党が最も開放したのは経済領域でもなければ、政治分野でもない。一文字「性」である。30年間、「革命性」から「性革命」への徹底的な転換を成したのである。

 「腐敗」も一つ典型的な事例である。どの国にも腐敗があると言って過言ではない。人がいる所には腐敗が存在している。しかし、中国共産党統制下の中国における腐敗は、今の世の中にも未来にも、かつて人類歴史上にもない。中国共産党の腐敗は党全体の腐敗であり、制度的腐敗である。インドにも腐敗があるという人がいるが、インドの官僚体制のうち、総理以下の国家公務員が使用する公用車はすべて同じメーカー、同じグレード、同じ色の国産車である。インドの最も頑丈な建物はほとんど学校の建物で、政府の官舎ではない。インドは公金による飲み食いや海外旅行もない。これはインドが貧しいからではなく、議会がこの類の支出を議決しないからである。インドはそれにもまして落盤式腐敗案件は存在しない。

 他国の「汚職があっても悪徳ははびこらない」状況に比べて、中国共産党の腐敗は、目に触れるものすべて心を痛めるほどの化膿式腐敗である。腐敗は中国社会における生存法則の一部と化してしまい、人々の心の中での暗黙の了解として受け入れられたのである。

 この「拡大」の仕組みはいかに活動しているのであろうか。中国共産党による「掃黄」(売春・ポルノ取締りキャンペーン)と「反腐」(腐敗取締りキャンペーン)を見ればわかるように、「掃黄」すればするほど、さらに蔓延し、「反腐」をすればするほど、さらにひどくなる。中国共産党の統制を脅かすような事情が出なければ、根本から根絶しようとしない。中国共産党の幹部から一般の農民まで「性革命」と「腐敗」などの道徳的墜落の「欲の海」に耽溺(たんでき・よくない事に夢中になってそれ以外の事を顧みないこと)することがしきりに勧められている。だからこそ、人民が邪悪な共産党自身に向けた視線が共産邪霊により上手く移転させられ、悪事をやりたいほうだいでき、この民衆を弾圧し、あの団体を迫害し、中国人の道徳が一歩一歩崩壊の深淵へ押し込まれていくのである。

 第三に、各種の悪い要素を総合し、壊滅物質を発酵させ、それによりさらに邪悪な物質や社会現象を作り上げる。上記で述べた性の乱れや腐敗について言えば、多くの腐敗はたいてい性的交渉を伴う。なぜなら、愛人を囲うためには、幹部は賄賂・腐敗に手を染めなければならず、賄賂・腐敗を通じて不正に手に入れた金を使って、さらに色町に通い、女遊びを刺激する。この両者を結託すれば、より強烈な作用が働き、中国全土において、「権(力)・銭(カネ)・色(女色)」に絡む、ただれて不潔な、倫理喪失の茶番劇が次々と上演される。

 第四に、まずは真相を隠すことから始まる。それゆえに強くなったと標榜(ひょうぼう)する中国共産党は必ずインターネットを封鎖し、真相を遮る。民衆にメディアの開放や言論の自由を与えない。その後、中国共産党による鶴の一声でへ理屈や邪説を使って粉飾し共産党の乱れた道徳的様相を覆い隠す。「世の中の悪人は皆悪事をする」は、中国共産党が民衆を洗脳する時の常套用語である。「どの国にも腐敗はある」「どの国でも経済発展の初期にはコピー商品や偽物が出回っている」「性の乱れ、どの国にも脱線する役人がいる」「合法的に売春婦の存在さえ認める国もある」「言論の自由、どの国も言いたいほうだいにさせないだろう、誹謗中傷の罪が定められているではないか」

 民衆が真相を知ることができないゆえに、長い時間がたつと、中国共産党の鶴の一声によるへ理屈、こねた詭弁(ほうべん)を受け入れてしまい、乱れた道徳はどうすることもできず、どの国も逃れられないことだと信じてしまうのである。いったん邪悪と道徳的堕落を合理化、正常化にしてしまうと、向上するチャンスを永遠に失ってしまうことになる。中国社会において毎年のように「誠実と信用の危機」を訴えているが、なぜこの危機がますますひどくなってしまうのかの理由はここにある。

 中国共産党のもう一つの言い訳は、あらゆる悪事の解決には、一つの「過程が必要」というのだ。なに事も徐々に良くなってくると騙す。当時、中国共産党の指導部の多くの人が、法輪功は人々の道徳を高め、社会の安定に良い働きをもたらすことを認め、江沢民による法輪功への迫害に反対したが、江沢民は、「経済を発展させれば、道徳は自ずと良くなる」と一切の反対の声を抑えつけた。しかし、われわれは振り返って見てみると、道徳は経済発展という「欲の海」の中でさらに速いスピードで墜落してしまった。中国共産党が言うこの「過程」は、へ理屈邪説による邪悪の合理化、正常化の過程であり、邪悪をさらに邪悪にする過程である。

 これら異常なものを正常化するだけでは物足らない。中国共産党の洗脳式世論を通じて正常なものを異常なものに変えてしまう。良いものを悪いものにしたり、善を悪にしたりしてはじめて是非善悪を判断する基準を徹底的にひっくり返すのである。

 四つの仕組みはまず道徳の谷間を作り、中国大地を人類の道徳的墜落の集積地、巨大なゴミ箱に変える。次に中国共産党による道徳的堕落の拡大効果を働かせ、党の独裁権力におびやかされないよう風紀を汚し変異した行為については、何でも取締るふりをし、ほらを吹いて見せ、実際のところはあおり立てて推し進めている。それに加えて、腐り汚れた物質の相互発酵作用により、邪な者はさらに邪になり、悪者はさらに悪になる。不断と道徳的境界線を破り、道徳的墜落の度合いをさらに拡大し、これこそが中国共産党が人類の道徳を破壊する具体的な現れである。最後にへ理屈邪説による邪悪を合理化、正常化にさせると同時に、元来正常なものを異常なものに変え、さらにそのうえ化け物にすることさえもある。

2.人間を「人間でないもの」に変える中国共産党

中国共産党による絶え間ない洗脳と騙し欺き、風紀汚しと変異の結果、今の若者は文化的素養をもたず、道徳を講じず、一部の人は、評判倒しの人間の「形」ばかりで、狼子の如きとなっている。

2004年から、中国大陸は、「狼文化」が流行っていた。小説や映画から会社の研修マニュアルまで、「狼文化」である。これを鼓吹する者は、狼の野性、凶悪、貪欲、暴虐の本性を、事業の中へ取り込み、「奮闘精神」と称す。多くの人は、これは生存競争に勝ち抜くための「先進」文化と勘違いしている。言い換えれば、人々は道徳を必要としない、競争の中で手段を問わずに勝ち抜くことが物事の運び方や人間を成すための判断基準となっている。「毒は蛇蠍(だかつ)の如き、恨は狼の如く」と昔から言い伝えられている。蛇、蠍(さそり)、狼はいかなる親情をももたず、自分の父母でさえ裂きかみつき、丸飲みにする。目下多くの若者はいかなる伝統的道徳観をももたず、物事を行う時はいかなる境界線も引かず、家では唯我独尊の有り様で、公共の場所でも父母を殴り罵り、さらに酷いのは、父母を讐敵(しゅうてき・かたき)と見なす、いったん自分の意に合わなければすぐに手を出す。このような人を狼子と呼び、まさにその通りだ。

(1)思想

①伝統文化を何一つ知らず、道徳の真空状態

共産党が政権を収奪後、何世代もの中国人に対して、歪曲(わいきょく)された歴史の洗脳教育、無神論と闘争の哲学により洗脳された結果、今多くの中国人が伝統的文化を何一つ知らない状態をもたらした。そのため、人々の心の中には、伝統的価値観が覆され、道徳の真空状態となった。

多くの中国人は、中国の上代や上古の歴史について話したら、まず思うのは「迷信」の二文字である。上代の先住民は自然現象に対する認識と自然を征服する素晴らしい願望から神話を作り上げたという。このように、禹(う)王治水(黄河を治むるものは天下を治む)のような上古以来の中国の歴史は、不思議な想像に変わった。古代帝王についていうなら、封建専制的で、まるで中国共産党と同様に何ものをも恐れずしたいほうだいのことをするような絶対的権力をもつと思うようになる。ところが実は、神伝文化の中で、「天子」は上天之子であり、自ら道徳の向上を行い、天地を受け入れなければならない。そうでなければ、上天に見捨てられ、徳行のある人にとって替えられる。このように、臣民は「天理」によって帝王を批判することができる。「天子」という呼称の重要なポイントは、帝王を天まで祭り上げるのではなく、その権力は神によって授けられ制約を受けるものであることを強調するところにある。

中華の伝統的価値観は、温 良 恭 倹 譲(おだやかで、すなおで、うやうやしく、つつましく、人にゆずる態度)を美徳とする。今日の人は、闘争や恨みを「高尚」と見なす。さらにその上古代以来の中国人はずっと「天と戦い、地と戦い」と思い込んでいる。日常のささいなことのため散々な目に遭うことが「不変の真理」だと思い込んでいる。しかし実際は、礼節をもって神を敬い、謙虚をもって人をもてなすことこそが真の「不変の真理」である。日本へ旅する多くの中国人は、日本人の礼節と謙虚な態度に驚きを隠せない理由はここにある。これこそが中国で中国共産党により破壊され日本で保存された中華の伝統的価値観である。

②あらゆる悪事を働く狼同然の人間関係

中国人は子どもの頃から無神論と弱肉強食の闘争の哲学により洗脳されている。共産党政権の暴虐無道と横暴理不尽を目にして大きくなった人は、必然的に暴力を盲信し、考え方や行為には暴虐と攻撃性に満ちる。家族を全員殺し、親殺し、妻殺し、毒殺、爆発、ぶった斬り、幼稚園の先生が園児を虐待、園児を相手に無差別殺人、幼女強姦、強制立ち退き、都市管理人による暴行、このような目に触れるものすべてが心を痛める事件であり、中国のネットニュースによる報道が後を絶たない。

2004年の時、中国共産党は新浪ネットに委託したネットアンケート調査で、「戦争中、婦人や子ともを銃殺してよいか否か」の問題について、回答した3万人余りの若者のうち、82.6%の人が肯定的回答をしたという。911テロ事件を含めた多くのテロ攻撃事件の後、多くの中国ネットユーザーから歓呼祝賀の声が続出したほどである。このような残忍冷血さは恐ろしくぞっとする。

2011年、西安音楽学院大学の薬家鑫という学生が車の運転中に、電動単車に乗る女性にぶつかった。薬氏は車から降り、状況を確認した時、倒れていた女性が車のナンバーをメモしているのを見て、車から携帯用ナイフを取り出し女性を6カ所も刺し殺したという。薬氏のクラスメイトの李氏もネットで次のように書き込んだ。「もし私が彼だったら、私も彼奴(被害を受けた女性)を殺したと思う。ぶつかって、厚かましくも車のナンバーのメモを取ったりされたかと思うと」、その残忍冷血さはぞっとするほどである。

2013年、復旦大学上海医学院2010学年修士課程在籍中の学生林森浩氏とルームメイトの黄洋因氏とささいなのことでトラブルを起こしてしまい、林森浩氏は実験室から猛毒の化学薬品を不正に取り出し、寮の寝室に設置しているウオーターサーバーに投入し、相手を毒殺してしまった。

2013年7月、北京市大興区にあるバス停付近で車同士の駐車トラブルとなり、当事者の男性は相手の2歳の子供を車内から引きずり出し、高く上げて地面に落とした。応急手当ては受けたものの、死亡した。「往来に面して女児を落し殺す」の大惨事は社会を震撼させた。

日常の中で、ささいなことで手を出すのはもはや日常茶飯事になった。年配の人は不可解に思う、中国人は一体どうなったのだ?その根源を究めれば、暴力を推奨する共産党が「憎悪」を中国人の血液に注ぎ込んだからだ。

③騙し合いの人間関係

「誠実と信用の危機」は、おそらく中国人が最も注目する道徳に関連する話題である。社会のあらゆる人の利益に直接的に害を及ぼすからである。80年代の偽タバコ、偽お酒、偽領収書、「官倒(幹部が権力・コネを利用し、やみ取引をして不正な金をもうけること)」の時代から、中国人はずっと「誠実と信用」を呼びかけ、偽物打倒を声高く上げていたが、2000年ごろには、詐欺は社会生活のあらゆる面に現れた。「誠実と信用の危機」のため、策略に落ちないよう用心深く日常生活をせざるを得ない状況を強いられ、中国人の生活は心身ともに極度に疲労してしまった。

今日に至って、偽商品の現象は災いのように氾濫し、食品から住宅、商品や修理、病気の診療、偽婚約者のレンタルまで、至るところに「誠実と信用の危機」が存在している。今の中国人は本当に大変だ、野菜や肉を買う時、毒入りかどうかを判別する能力が要求される。住宅の購入には住宅品質鑑定士にならなければならない。

子どもの予防接種の時は偽ワクチンを識別しなければならない。赤十字や慈善機関へ寄付する時でさえ、その信用を鑑みなければならない。避妊薬注入、偽卵、痩肉精(塩酸クレンブテロール)、スーダンレッド(アゾ基を持つ芳香族化合物)、毒カプセル、毒ミルク、剽窃(ひょうせつ・パクリ)論文、おから校舎(手抜き工事)各業界の模倣品・偽物は「山寨(さんさい)」と呼ばれる。人々は奇怪なことを見ても全く動じないようになった。大量の残留農薬、ホルモン剤、除草剤、殺虫剤、熟成剤、鮮度保持剤等有毒食品や偽食品の摂取により、男性の女性ホルモン増加、性機能障害、生理不順、生殖能力の低下、性早熟症、幼児の先天性発育異常など多くの現象がますます深刻な社会的問題となり、中国大陸の著名な医学専門家は、数十年後の中国人男性は生殖能力を持たないと断言するほどである。

「誠実と信用の危機」について重要なポイントは、やはり政府の誠実と信用にかかると訴えている人がいる。これも間違ってはいない。上の者が正しくなければ下の者も悪くなるという考え方だ。しかし、共産党が誠実と信用を講じることができるだろうか。腐敗官僚たちに権力・カネ絡みの取引をやめさせられるのか、ネット検閲をやめさせてこの本を自由に読ませられるのか、共産党により捏造された歴史を認めるのか、これはできない相談を求めるのと同じだ。

また、偽物作りの人が厳罰を受け、二度と冒さないために、法律による管理を強化すべきだという人もいる。しかし肝心なのは、一体誰が法の執行・監督を行うのか、誰が法律や司法の執行者を監督するのか、品質監督検査検疫局の官僚たちが廉潔者であることを誰が保障するのか。

やがて、伝統文化への復帰だと呼びかける人が出て来る。中国共産党の伝統文化教育を進めている。しかし、無神論をベースにした伝統文化の宣伝は、すでに破壊した中国共産党の道徳説教と何の違いもない。人に「(老)子曰く」、「詩云う」を伝えるだけで、人は誠実と信用を自ら守ることができるだろうか。

例を挙げてみよう。仮に産業全体で、いかなる責任も問われずにメラミンを乳製品に混入させることができるとするならば、堅実に本業を安全第一で考える企業はコスト競争により淘汰されかねない。この時に直面するのは、利益が出なくても誠実に信用を守るべきか、それとも楽に金儲けの道へ流されていくかを選択することになるだろう。良い人になれば損することが明白な社会の中においては、中国共産党により神性の神髄が削られた、いわゆる党がいう「伝統文化」は、人々が誠実と信用を堅持する理由を見いだせない。

実際に、中国共産党により削られた神伝文化の真の内包を取り戻すことさえできれば、問題の解決は実に簡単だ。内心から「頭上三尺に神あり」と信じる人は、堅実な人生を送ることができ、誠実と信用の保持は上天から授かった人間を成すための根源であり、かつて寺院の中でよく見られたように、「你哄你我不哄你,人亏人天岂亏人」。当然すべての人がこのように正直で平坦ではいられないかもしれない、昔の伝統社会の中にも君子もいれば小人もいる。しかし今日のような「人々が我を害し、我が人々を害する」社会の中で、損しても平然として居られ、道義を守り抜く人がわずかでもいれば、より多くの人々の善良な気持ちを呼び戻すことができる。

中国の「誠実と信用の危機」問題は、1980年代から呼びかけて以来、2000年の全国人民代表大会へ提案された。政府報告の中でも誠実と信用のある社会づくりが提起され、今日に至って、社会学、心理学、法律学などの各専門領域にわたって研究の対象となっている。数十年来、誠実と信用がかえってますます危機的状況に陥っており、「発展」の中で簡単に解決できるような問題でないことは一目瞭然である。

十数年間、呼びかけ続けても、危機的状況が絶え間なく起こる「誠実と信用」の問題は、伝統価値が中国共産党により覆されたところに根本的原因があり、中国共産党が鼓吹する「黙ってカネ儲けする」という価値観に根本的原因があり、共産党の挑発による民衆闘争の中でやむを得ず身に付けた相互不信、相互摘発に根本的原因がある。人々が問題を解決しようと考えるとき、すべての努力は、共産党そのものに直面すると、もはや解決しようのない難題となってしまう。なぜなら、共産党自身が問題を作りだしたからである。

④「利益のみを追求する」価値観をはるかに超える

近年、「富を見せびらかす女」や「拝金女」に関する報道は、世間で物議を醸すほど後が絶えない。一部の若い女性はソーシャルメディア(SNSなど)を通じて、自己の出身、財産、手腕を、勝手な気炎を上げて自宅豪邸、高級自家用車、ブランドのバッグ、腕時計、高級アクセサリー等々を見せびらかす。テレビのお見合い番組の中で、自転車愛好家の男性ゲストが女性ゲストに、今後自分に付添って時々一緒にサイクリングを楽しむことができるかと尋ねたところ、女性ゲストの一人は、「BMWの中に座って泣く方がましだ」とすぐさま口からこぼした。さらにひどいのは、「物質(広く金銭・品物を指す)をもっと猛烈に来させよう」と赤裸々に叫ぶ人もいる。

これら赤裸々な拝金主義から世論を騒がせると同時に、羨望(せんぼう)の思いも現れてきた。これは一種の社会的病態であり、転倒した価値観の重要な症状であり、中国共産党文化の新たな歴史的条件の下での変体である。共産党始祖の唯物主義から今現在の赤裸々な拝金主義までは一歩の距離である。

⑤審醜の時代

人間の審美観(本当の美しさを的確に見極める能力)はその人の道徳の尺度と密接に関係する。正常な人類の審美観は、美しく、純正で、善良な、光明な芸術を見極めるのである。しかし、人々の道徳がひどく堕落した時は、人々は醜悪なものを好み始める。ひいては醜悪なものを芸術として宣伝さえするようになる。このようないわゆる芸術はまたかえって人々の道徳の更なる堕落を引き起こし、最終的に人間を人間でないものに変えてしまう。

この2、30年の中国社会においては、低俗を流行として宣伝し、醜悪を芸術と見なした。中国では、いわゆる芸術家が死んだ子どもの肉を食べたり、裸になった体に蜂蜜を塗り、トイレに座りハエを吸い寄せ美しい名前を付けてパフォーマンスアートと言う。中国は審醜の時代に入ったと、多くの人はその驚きを隠せない。

ひと昔前の玩具は、奇麗な美しいものが好まれたが、今の玩具は、醜くて、怪異であればあるほど売れ行きが良いのだ。

一部のネット名人は注目を集めるため、醜を美とする。人を驚かすような言動で、人々の醜悪怪異を受け入れる境界線に挑戦する。恥とせず、光栄に思う。多くの若者は彼らが一挙に有名になるのをうらやましく思っている。

さらに、道理をもって諭すことができないのは、中国の多くの都市部においては、トイレをテーマとするレストランが誕生していることだ。レストランをトイレのように装飾し、便器状の食器に料理を入れ、便の形状をしたアイスクリームを提供する。その顧客の多くは若者だ。

(2)言語

① ゾンビ化した「党話」

書物『党文化の解体』の中で、中国共産党統制下における党話の氾濫の状況を系統的に詳細分析を行った。例えば、お互いを「同志」と呼び、典型的な党八股(とうはっこ)ワード、党文化の物質的な魔の場の長期的な運びを継承する。例えば、

1)会議精神、路線、認識、思想報告――中共邪教が国民の精神を統制する手段

2)指導者、「単位」、組織、身上調書、政治審査、戸籍――厳密に国民を監視する組織

3)宣伝、貫徹(徹底した理解)、執行、呼びかけ(呼集)、労働模範、上級、代表、委員会――厳しい等級を持つ組織構造

4)奮闘、自己批判、闘争、批判と自己批判――闘争を扇動して「党」の結束力を強める

幼稚園から、小学校、中学校、大学まで、中国人は幼い頃から党話という言葉の環境に浸っている。小学生の作文には必ず、「(少年先鋒隊員の)赤いネッカチーフは永遠に共産党について行く」「私は××党を愛する」「党の話に従い、党について行く」、成年になってからも「××大(共産党大会)」報告についての心得を書かなければならない。中国の大通りや横町を歩けばわかるように、延安時代から新しい時代に至っても、それぞれの時代に、紅歌(共産党を讃える歌)が依然として満天に飛び交う。

このようなことに関して意に介さない人もいるだろう。時代が変わった、今の時代は人がこのような言葉を使ったとしても、本気で信じていないのだという。しかし、問題は、仮に本気で信じていないとしても、大多数の人は依然としてこの類の言葉を平気で使っていることだ。これは党話が民族言語を乗っ取っていることにほかならない。まるで悪性腫瘍のように、どんどん大きくなる。党話に乗っ取られた人はかえってこの悪性腫瘍に依頼するようになり、それを取り除いて自浄することはなおさら不可能なことだ。

②口を開けば嘘だらけ

誠は人を成すための根本である。共産党は暴力と嘘偽りに頼ってその統制を維持する。嘘つきは共産党員の必須素質で得意の芸である。1989年の天安門事件後、スポークスマンは国内外の記者の質問に対し、天安門広場には死者は一人も出ていないと平然と答える。

十数年後、中国共産党は挙国体制で法輪功に対し迫害を強行した時も、当時のスポークスマンは、中国の人権状況は歴史的に最高の時期であると図々しく口を開く。子どもは小さいときから嘘を言うことをたたき込まれる。政治、歴史、国語などの教科内容はうその話が満ち溢れている。答案を解くときは、その内容が一線を超えることは決して許されることではない。このような環境で大きくなった子どもたちは、まったく罪悪感を持たずに平気で嘘をつく。政府のスポークスマンから、党の宣伝機関である中央テレビ局(CCTV)の「新聞聯播」(ニュース番組)、「焦点訪談」(ニューススポット)まで、各級の党幹部の報告書から文学歴史分野の学術研究まで、公な場面から一般の家庭生活まで、中国社会は無尽の嘘に包まれている。「人民日報」の日付だけが本物で、後は全部偽物だというのは、すでに数十年前からの共通認識である。中国はすでに正真正銘の嘘偽りの国となった。本当の話を言う、真実を話す人は、極めて珍しい存在となり、異端者と見なされ、強いては各面から封じ込まれてしまう。これは中国共産党が道徳を全面的に破壊した直接的な悪い結果の一つである。

③大流行する無頼なことば

古代の中国は、おそらく世界的にその官僚の文化的水準が最も高い国であろう。漢の時代から、中国には比較的完備された官僚選抜制度が築き上げられている。隋の時代から清朝まで継承し続けた科挙制度のもとで、多くの優秀な人材が選ばれて官僚となり、皇帝による国家統制を補佐してきた。今日に残された正史と各種史料を見れば、古代中国の政治と社会的文明の程度は、現代人が驚くほど高かった。誠実で優しい態度(「詩経」による教え)や、温 良 恭 倹 譲(おだやかで、すなおで、うやうやしく、つつましく、人にゆずる態度)といった古訓は、古代の人々が話をする時、みな穏やかで、寛大、謙虚、礼節をもつ。無頼なことばは一度も大雅の堂に現れることはなかった。

しかしこの伝統は、共産党の天下のもとでひっくり返された。中国共産党はその家業を興す時からプロレタリアート(資本主義社会の最底辺に沈殿する不老的な貧困層)である。中国共産党の党首(毛沢東)の無頼なことばは、政府の公文書、新聞、文集から詩歌の中に堂々と登場し、大衆が真似する対象となる。「マルクス主義の道理、多岐多端、最終的な一句、造反有理である」「世界革命の勝利のため、われわれは3億の中国人を犠牲にする準備ができている」「お上(権力上層部)が放った屁(へ)は全部いい香りとは限らない、これも対立することがある、いい匂いも臭い匂いもある、よく匂わなければならない」。それ以来、共産党の歴代の党首もみな型どおりのことをし、へ理屈や無頼なことばを放つ。鄧小平の言葉「学生・坊やたちは話を聞かなかったら、一つの中隊(軍隊の部隊編成の単位)で問題解決するさ」、江沢民の言葉「黙ってカネ儲けする」、法輪功に対しては「名誉を貶(けな)し、経済力を絶ち 、肉体を消滅させる」。表現の内容からその形式まで邪悪の極みだ。上がやれば下は真似をする。横暴な気炎は社会全体を席巻してしまった。

④満ち溢れる汚い言葉

中国共産党の堕落は境界線を引かない。それによってもたらされる一般中国人の堕落も底なしである。現在、空虚で頽廃(たいはい・おとろえすたれること)してきた多くの中国人は、心理的バランスを保つために、人を罵る以外の方法を持たない。汚い言葉を話すことから心中の憤慨を放つ。自虐的行為で卑賎(ひせん)的存在感を示す。何万人も一緒に大声で汚い言葉で罵る場面は、中国のサッカーにある常態である。種々の自虐的表現の言葉は流行語となり、ネットユーザーにより毎日何千万回繰り返して使われている。中国語のインターネットの世界では、各種の引用し難い汚い言葉で満ち溢れている。現実の生活の中で、妙齢な少女でさえ大勢の前で何らはばからず汚い言葉を話す。このような低俗、汚い言葉を話す人の精神世界は一体どれほど不潔で荒れ果てているだろうか。

(3)礼節の欠ける行動

 かつての中国は「礼節の国」と称される。先秦時代(秦以前の時代を指す)の「三礼」と呼ばれる典籍『周礼』『儀礼』『礼記』の中には古代中国人の豊かな美しい礼儀を詳細に記していると同時に、「礼」における天道根源と「礼」の背後にある哲理を深く探求した。この礼の精神は中国共産党が政権を立てるまで続いた。1949年以前、教育を受けた年配の方は礼儀正しさを記憶している人もいるだろう。しかし悲しいことに、中国共産党によって統制された数十年がたった後、それらをすべて失ってしまった。

 礼は必ず節を伴う。節とは「節文」、すなわち矩(のり・法則)である。古代の児童啓発教育の中でまず教えているのは、洒掃・応対・進退(洒掃=清掃、応対、進退の節)といった日常生活の基本規則である。年配の方がよく口にする言葉がある。「人を成すためにはそれに相応しい姿勢が必要だ」。一見簡単そうな言葉の中には奥深い道理が含まれている。神は人にその行動規範を定め、典籍、礼儀、風習などを通して代々伝承されてきている。

 家規家訓は中国の伝統文化を成す重要な部分である。中国の家規家訓という伝統は何千年も継承されてきた。この伝統の存在は、家庭や社会にとって大変有用な意義をもっている。三国時代の諸葛亮(孔明)の『誡子書』、唐太宗の『誡皇属』、康煕皇帝の『庭訓格言』、南北朝時代の顔之推の『顔氏家訓』などの書物は、家族の自治や人間を成すための規範をまとめたものである。後世への教育、家庭倫理、家族間の家事分担、自身の教養、ひととなり処世の態度、家を講じ事業を講じる、国へ奉仕するなどの面において大変積極的な役割を果たしてきた。中国共産党が政権樹立する前、中国の民間において伝えられた多くの家規家訓が、人々のひととなり処世の態度の礎石となった。これら家規家訓のうち、最も広く伝えられたものの一つは、家訓30条というものがある。次のような内容が含まれる。

 目上の人に対す「您」(中国語〈你・あなた〉の尊敬語)を使わなければならない、貧乏揺すりしてはならない、相手の名前や尊称を呼んでから話かけなければならない。大勢の前で大声を出してはならない、嘘をついてはならなない、宴会時は主賓が箸を取るのを確認してから来賓が箸を取る、外出先から家へ戻ったら年長の人に挨拶をする等々。

 ささいなことに見えるかもしれないが、個人の行動規範や人間関係を作るために大変重要であることは間違いない。

 人の行いは、その人の教養、徳性と知力を体現するものである。中国共産党による道徳の破壊は、人々のものの言い方や立ち振る舞いなどを心の欲するところに従い、矩を遵(こ)えず、下品な行為をし、多くの中国人を劣等人に変えてしまった。

古代の中国人は非常に容貌を重んじていた。「站如松、坐如鐘、行如風、臥如弓(立てば松、座れば鐘、歩く姿は風の如き、横になれば弓の如く)」というのが基本である。現代の中国人の多くは老け込んでよたよた、立ち振る舞いや歩く姿が美しくなくて、見苦しく下品である。

海外に目を向ければ、中国人観光客の行為は人から横目で見られてしまう。大声で話し、名勝地で歩きたばこ、随所で唾を吐き、割り込み、名勝古刹で建造物を触ったり登ったりする。中国人観光客が急増しているスイスでは、スイス人は「圧迫された」と感じたようだ。中国人が車内で唾を吐き、他の観光客の靴についてしまったなどのクレームを受けた鉄道会社は、中国人専用の特別列車の運行を始めたほどである。

より酷いのは、2015年、英国の有名ブランド「バーバリー」の店舗前で、1人の女性が男児を抱えて排泄させた。2016年8月2日、サンクトペテルブルクのエカテリーナ宮殿を観光中の親が尿意を伝えた子どもに、悠久な歴史を誇るエカテリーナ宮殿の床でおしっこをさせたという。事件は宮殿の職員を驚かせ、宮殿の館長から一般職員まで現場に駆け付け後処理に追われたそうだ。職員の話では、これは歴史的な出来事だという。

中国人の素質は本当にそこまで悪質になったのか、従来からこうだったわけではない。今日の中国人の素質の低下は、数十年来の共産党による伝統文化を破壊した結果である。

(4)人間にふさわしい身なりの皆無の怪物

中国語では「相由心生(相は心から生じる)」という表現がある。人心の変化は人の外形や表情に影響を及ぼすからだ。中国共産党による蹂躙(じゅうりん)と変異させた結果、中国人の心は荒れ果てて、粗末になったばかりでなく、外形や表情も尋常でなくなった。

近年、市井では経年の旧写真が流行っているようだ。今の中国人は昔の人々の素朴な純真さを懐かしく思うようになっている。清朝末期、民国時代の写真に写った人の外形や気質は人間らしさが溢れている。男には男らしさがあり、女には女らしさがある。人間としての美しい容貌と伝統的文化の蓄積が感じられる。多くの人は自分の先祖の数十年前の写真を見て、その人のまなざしに純情と善良が写っているのを感じ取っている。

世の東西問わず、伝統的な映画作品の中で、肯定的人物のイメージは一般的に美しく、あこがれの存在である。一方、反面人物像の振る舞いが相対的にマイナスのイメージで、醜く下品である。中国共産党が政権樹立する前、人々は正常な文化的環境の中で過ごしていたので、プラスの要素が比較的多く、人の外形や表情も正しい気風を表している。このように役者は、反面人物を演じるのに一苦労して、なかなか上手くいかないものである。現在の中国大陸の役者たちは、みな中国共産党の党文化の毒性土壌のもとで大きくなってきた人であるため、外形と表情の正の要素が不足しており、邪性ごろつき横暴、不良じみているようでは、肯定的人物を演じるため、稽古を重ねても上手く行かず、反面人物を演じるなら苦労もせずありのままでも上手く演じるのだ。

昔は、みだらでなまめかしい雰囲気(妖気)や悪魔気質をネガティブな表現として使われてきたが、しかし社会においてマイナスの要素が増えるにつれ、今は、役者かたぎあり、才能あり、創意工夫があることなどを賛美するのに、「妖気」という言葉を使うほどである。「魔性」はポジティブな表現となって、異質で面白味のない人、面白味のないこと、面白味のないものを表現するようになった。多くの若者は、「この人は「魔性」があるとか、「魔性」的な笑い声があるとか、賛美の気持ちを表す。「有妖気」はネット漫画のサイト名となり、「妖怪管理局」はテレビドラマのテーマとなり、ドラマの制作チームは、「人々の心の中で妖怪が宿っている」をキーワードに、世界中に「妖気」のある俳優を募集したという。このことは、人々の美意識の変化の側面から、文化の破壊がもたらす悪影響を一瞥(いっしゅう)することができる。

現在の中国社会の多くの人の気質や容貌は卑俗的で醜くなっている。乱れた身だしなみに、パジャマ姿で街へ出るのも社会的常態となってしまった。多くの男の子は男子らしさがなく、喋る時は甘えた声で甘えるそぶりをし、すらっとした体格を美とする。髪を染めて、目がゆらゆらして、体もくねくねして、男のようでもなければ女のようでもない。すらっとした服装で、長ズボンは半分を切ってはいたり、髪形もグロテスクな格好やカツラをつけたりしている。女の子も奇怪な髪形、無表情の顔、目つき、中共の「闘争の哲学」の影響で、伝統的な女らしさは男子の勇猛さにとって替えられ、いわゆる「女性の味」がなくなりつつある。上流社会の人でも、表情・動作・姿などわざとらしく、成人も幼さをわざと演出して、場面を選ばずにいちゃついたりするほどである。

つづく

転載大紀元 エポックタイムズ・ジャパン

『共産主義の最終目的』序文
第一章 中心なる国 神より伝えられた文化
第二章(上)赤魔の陰謀:人類を壊滅させる
第二章(下)赤魔の陰謀:人類を壊滅させる
第三章(上)共産邪霊の手段:殺戮
第三章(下)共産邪霊の手段:環境と文化の破
第四章(上)共産邪霊 人類を破滅の道へ
第四章(下) 共産邪霊、人類を破滅の道へ
第五章(上)邪霊が位を簒奪し文化が廃れる
第五章(下)邪霊が位を簒奪し文化が廃れる
第六章(上)「憎悪」を国家の支柱とする
第六章(下)「憎悪」を国家の支柱とする
『共産主義の最終目的』終わりに

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