【脱党支援センター2020年8月9日】
序文
中国共産党政権の成立から55年間の歴史は、血と嘘で記された歴史である。その流血の裏にある事実は、残酷非道であるばかりでなく、ほとんど世間に知られてない。中国人の6千万ないし8千万もの罪のない人々の命が犠牲となり、更に多くの家庭が迫害された。今日でも、多くの人たちが依然として、なぜ中共は人を殺す必要があるのかと考えている。今日でも中共は相変わらず、法輪功学習者を虐殺しており、更に2004年11月初旬に至っては、漢源で抗議する民衆に対して発砲し制圧した、その時も多くの人たちが思ったことは、いつ中共が虐殺を止め、対話することを学び、銃を用いるのではなく話し合いをするかということである。
毛沢東が「文化大革命」を総括したとき、「国内が大いに乱れ、そして泰平の世となった、七、八年後にまた同じようなことになるであろう」と述べた。[1] はっきりと言うならば、つまり七、八年ごとに政治運動を行い、七、八年ごとに、再度大量の人たちを殺すことと言える。
共産党のこのような殺人には理論的根拠があり、現実に必要なことなのである。理論から言うと、共産党が「プロレタリア独裁」と「プロレタリア独裁の基での継続革命」を信じ、政権を打ち立ててから、「地主を殺す」という方法で、農村の生産秩序を解決し、「ブルジョアを殺す」ことで、商工業の改革をなし遂げ、都市の生産秩序を解決する。この二つの階級を抹殺してから、経済における基礎的問題をほぼ解決した。イデオロギーの問題も殺人によって解決しなければならない。その中に、「胡風の反党集団」を絶滅させることと「反右」を含み、それをもって、知識人たちを粛清する目的を達成する。「民間信仰団体及び結社」を殺すことで、宗教問題を解決する。「文革の人殺し」は文化及び政治に関する党の絶対的な指導権問題を解決するためである。「天安門事件」の殺人は民主化を求める問題を解決するためであり、政治危機から逃れる為である。「法輪功を迫害する」ことは、信仰及び健康増進運動等々の問題を解決するためである。
このすべては、みな中共がその地位を強化し、その統治を維持する過程で、絶えず、経済危機(政権を打ち立ててから、物価が高騰し、文革後の経済が崩壊する寸前に)、政治危機(一部分の人たちが党に服従せず、一部分の人たちが党と政治権利を奪い合う)、信仰危機(旧ソ連の解体及び東欧激変事件、法輪功事件)を解決するうえで起った、必然的な反応である。法輪功事件以外の、前述したすべての政治運動は、中共悪霊への充電であり、革命意欲を掻き立てる過程は、即ち党の組織に対する検査で、全ての党の要求に符合していない党員は、一切淘汰されてしまう。
それとともに、共産党の殺人は現実に必要でもある。共産党は立党当時から、無頼漢やならず者が、人を殺し、作り上げたものである。人殺しを既に始めたので、絶対に途中止まることなく、しかも絶えず恐怖を作り上げ、人民を恐怖の中におき、人民は党が強硬すぎるため、頭を下げ言いなりになるという現実を認めざるをえない。
表面的に、多くの事例は、中共が「受身の立場の殺人」のようで、社会に偶然の事件が起り、偶然に中共の悪霊及びその中共の組織的殺人メカニズムに触れたようであるが、実は、「偶発」の裏に隠れている周期的な殺人は、中共にとっては、必然なことである。そうでなければ、喉元過ぎれば熱さを忘れることになり、二年間ほど殺人をしないと、人々は中共が既に改善されたという錯覚に陥ってしまい、甚だしい事例としては、89年(天安門事件)民主運動の理想青年と同様、民主化を性急に求めることになりかねない。
七、八年ごとに一度大量殺人をすれば、人々に恐怖感への記憶を絶えず刷新することができる。成長したばかりの若者たちに警告し、共産党に反対し、中共の絶対指導権に挑戦しようとする人たちや、歴史の本来の面目を回復しようと図る人たちに、「プロレタリア独裁の強烈な打撃」を食わすに違いない。この点から見ると、殺人とは、中共が統治を維持するための最も必要な手段の一つである。血の債務がますます多くなる状況の下で、屠殺用の刃物を捨てると、自分自身を民衆に渡して清算されることになる。それゆえ、中共の人殺しは、大量に殺戮して、死体を至る所に放置するばかりでなく、しかも、その手段はとても残虐で、特に、政権を打ち立てたばかりの時期には、そうしなければ、民衆を震え上がらせることができなかった。
恐怖を作り出すための殺人であるため、誰を殺し、誰を殺さないか、ということに理性などいささかもない歴代の政治運動に中共は、「集団殺害」政策を利用してきた。「反革命を鎮圧する」を例として、中共は反革命の行為を鎮圧することではなく、反革命「者」を鎮圧するわけである。例えば、ある人が無理やり兵役に徴用され、わずか数日間、国民党の兵隊になったという事実だけで、台頭した中共政権に対し、何ら反対していないにもかかわらず、やはり処刑されるのである。なぜならば、その人は「歴史反革命」に属しているからである。土地改革の過程で、中共は、甚だしく「禍根を根絶する」という絶滅方式を取り、地主を殺害する以外に、その家族全員を殺す。1949年以降、中国では人口の半分以上が中共の迫害を受けたことがあり、不自然に死亡した人数は6千万ないし8千万と推定され、二度の大戦における死亡者数の総数を上回っている。
世界の他の共産国家と同様、中共はほしいままに、民衆を屠殺するばかりでなく、内部に対しても血生臭く粛清し、手段も極めて残虐であり、その目的の一つは「人間性が党性に勝った」異分子を排斥するためである。人民を脅迫する必要ばかりでなく、内輪の人に対し、脅迫が必要である。それは、「難攻不落の堡塁」を形成させるためである。
文化面において、正常な社会では、人間と人間との間の愛と思いやりを満たし、生命への畏敬と神への感謝の気持ちを溢れさせる。東洋人は「己の欲せざるところを人に施すなかれ」[2]と言い、西洋人は「己を愛する如く他人を愛せ」[3]と言っている。共産党だけが「今までの、すべての歴史は階級闘争の歴史である」[4]と言い、「闘争」を維持するために、人民の間に、憎しみを煽らなければならない。中共自身が人を殺すばかりではなく、大衆と大衆との間で殺しあうことを唆す。人民を絶えず人殺しの中におき、他人の苦痛及び命を無視することを教え、色々な非人道的な残虐な暴行に慣れてしまい、無頓着にする。運良く暴行が免れることを最も幸いなことだと思わせ、中共の統治が残虐な鎮圧によって維持されることができるようになる。
それゆえ、中共は何十年もの間、虐殺の中で、数え切れない生命を破壊した。更に、中華民族の精神をも打ち砕いてしまった。数多くの人たちが、残虐な闘争の過程で、条件反射を形成され、中共が殺戮の刀さえ上げれば、すぐに、すべての原則を放棄し、一切の判断力を無くし、投げ出してしまう。ある意味から言うと、彼らの精神は既に死んでいる。これは肉体の死亡より遥かに恐ろしいことである。
一 殺戮は麻を切るが如し
毛沢東が政権を打ち立てる前に書いた文章の中で、既に「われわれは反動派と反動階級の反動行為に対し絶対に仁政を施さぬ」と示した。[5] 言い換えれば、中共が北京に入る前、とっくに「暴政」を実行する決意を表明し、しかも、それに「人民民主専制」という立派な名前を付けた。以下にその例を挙げる。
(一)反革命鎮圧と土地改革
中共が1950年3月に出した《厳しく反革命分子を鎮圧する指示》より始まった運動は、歴史上「鎮反」運動と呼ばれる。歴代の皇帝が即位後に、世間を大赦するのと異なるのは、中共は登場すると即、斬殺の刀を上げた。毛沢東は、ある資料の中で「極めて多くの地方で、あれこれ気兼ねして大っぴらに反革命分子を殺すことができない」と述べていた。1951年2月、中共中央は再び、浙江省と皖南以外に、「その他の殺人が足りない地区、特に大、中都市では、引き続き躊躇することなく一まとめに逮捕し一まとめに処刑しろ。止めるのが早すぎてはならない」と指示を与えた。毛沢東は「農村で、反革命を斬殺するのは、一般的に、人口の千分の一を超えるべきで、…都市では、千分の一より少なくする」という指示を与えた。当時の中国は、6億の人口で計算すると、毛の至上命令だけで、少なくとも60万の人間の首が刎ねられた。その「千分の一」という数字の比例については、どういう方法で算出したものであるかどうかは、知るべくもないが、毛は、おそらく気まぐれで、この60万人の命を下地にすれば、人民に恐怖感をもたらす最低の規模に、十分であると考えたのであろう。それ故、このような指標を下したのであろう。
処刑された人たちの罪が、死刑に価するかどうかなどは、中共はまったく考えることのない問題である。1951年、中共が公布した《中華人民共和国反革命分子を懲罰する条例》によると、「デマを飛ばす」ことさえも、即時死罪にすることができる。「鎮反」と同様、勢いが激しい「土地改革運動」を行っている。実情は、中共は20世紀20年代に、既にその占領区域に「土地改革」を始めた。表には、「太平天国」[6]の「有田同耕」に似たような理想を実現させ、実際の、本当の目的は、口実を作って、人を殺すことだ。中共党内第4位の人物である陶鋳は、「村ごとに血祭りに上げ、各世代を闘争に参加させよう」という「土地改革」スロ−ガンを提示した。つまり、各村とも、地主を銃殺するということである。
本来なら、土地改革に、殺人などはまったく必要がなく、同様に、台湾政府のような買戻し方式を採用することができるにもかかわらず、もともと匪賊とルンペン・プロレタリア−トに頼って始まった中共は、「奪い取る」ことしか分からない。他人のものを奪い取ったならば、恨みが怖いため、いっそのこと、根こそぎにしてしまう。「土地改革」のとき、頻繁に見られた殺人方法は、闘争会である。地主や富農たちに、いくつかのでっち上げの罪名を被せ、それから演壇の下の人々にどうするのかと尋ねる。演壇の下に、事前に手配した中共党員または積極的行動をする人々が、やらせで「殺すべきだ!」と大きな声で叫ぶ、それにより、地主や富農たちはその場で処刑されてしまう。当時、農村に若干の田畑を持っている者は皆、何らかの「覇」として定められた。よく百姓をいじめる者は「悪覇」と呼ばれ、常に大衆のために善行を行う人が「善覇」と呼ばれ、何にもやっていない者は「不覇」と呼ばれたが、このような区別に本質的な違いがない。なぜならば、どの種類の「覇」の結末も、常に同様にその場で、処決されてしまったのである。
中共の1952年末までの公布によれば、消滅された「反革命分子」は240万人に達し、実際には、国民党が任命した県知事から、地方町内会の10人ごとグル−プの甲長(組長)までの公務員や教師及び地主等は、少なくとも500万以上の人たちが殺害された。このような「鎮反」と「土地改革」は、次にあげるような、最も直接的な効果があった。第一に、従来の中国の基本権力の組織は、基本的に農村の宗族による自治は、その土地の有力者が地方自治のリ−ダ−になっていた。中共が「鎮反」及び「土地改革」を通して、本来のシステムの管理人員を殺し尽くし、「各村とも党支部がある」ことによって、農村に対する全面的なコントロ−ルを実現させた。第二は、「土地改革」と「鎮反」運動を通じて、大量の財産と金銭を略奪した。第三は、地主及び富農たちへの残虐な鎮圧を通して、庶民たちを震え上がらせる効果を発揮した。
(二) 「三反」、「五反」運動
「鎮反」と「土地改革」が主に農村の基本的な階層を目標としたものとすれば、続いてできた「三反、五反」運動は、即ち都市の中の虐殺運動である。「三反」運動は、1951年12月から、中共内部幹部の腐敗を対象とし繰り広げた「汚職に反対し、浪費に反対し、官僚主義に反対する」という運動であった。当時、腐敗幹部を処刑したが、その後、すぐ引き続き中共は、其の幹部たちが悪くなったのは、みな、資本家たちの誘惑のせいだと思った。そこで、次の年の1月から、「五反」運動が始まった。即ち、「贈賄に反対し、脱税に反対し、国家財産の窃盗に反対し、手抜き及び材料をごまかすことに反対し、国家経済情報の窃盗に反対する」という運動である。
「五反」運動は、実際には、資本家の財産を略奪することであり、甚だしくは、財物を強奪するために人を謀殺することである。当時の上海市長陳毅は、毎晩ソファ−に体をもたれ、のんびりとお茶を持ち上げ、報告を聞きながら、「今日は、どのぐらいのパラシュ−ト兵が降りたのか」と問う。つまり、商人が何人飛び降り自殺をしたか、と聞いていたのである。「五反」運動にあって全ての資本家は、災難を避けることができない運命となった。いわゆる「脱税に反対する」ことは、光緒時代の上海開港当初から計算した膨大なもので、資本家たちは、家財を投げ打っても、「税金」を払えないことになり、自殺しようと思っても、黄浦江に身を投げることもできない。なぜならば、香港へ逃げたと言われる恐れがあり、家族たちが続き、返済を求められることを避けるため、仕方なく建物から飛び降りて自殺し、中共に死体を見せれば、諦めてもらえるということである。当時、上海高層ビルの両側を、あえて歩こうとする人はいなかった。上から飛び降りた人に押しつぶされることを恐れがあったからである。
1996年、中共中央党史研究室などの4つの部門により、共同編纂された《建国以来歴史政治運動事実》の報告によると、「三反、五反」運動中に、32万3,100余りの人が逮捕され、280数人が自殺したか、または失踪した。1955年の「胡風に反対する」運動では、5,000人余りが巻き添えにされ、500人以上が逮捕され、60人ほどが自殺した。12人は不自然な死亡である。その後も引き続いた「反革命分子粛清」運動の中で、2万1,300人余りが死刑判決され、4,300人ほどが自殺、失踪した。[7]
(三)大飢饉
中国共産党が建国した後、最も多く死亡者を出した政治運動は「大躍進」[8]後の大凶作であった。紅旗出版社が1994年2月に出版した「中華人民共和国歴史実録」では、表題『大飢荒』の中で、「1959年から1961年までの死亡者及び出生者数には不自然な部分がみられ、減少した数は約4千万人と記されている。…中国の人口が4千万人も減少したこと自体が本世紀においての世界最大級の“凶作”であるとしている。実際、海外及び国内の学者らによると、飢餓による死亡人口は、統計によると、3千万人から4千5百万人であると言われている。[9]
今回の大飢饉を、中国共産党は「三年の自然災害である」と事実を歪曲して報じた。実際、その三年間の気候は穏やかであった。大規模な洪水、旱魃、台風、津波、地震、霜、雹、害虫などによる自然災害は一度もなかった。これは全くの「人的災害」であった。「大躍進」と言う名目で、全国民を挙げての製鋼事業のために、農作物の収穫が出来ず、腐るまで放置された。しかし、当時は各地でそれぞれの頭角を争うため、柳州地区の委員会第一書記である賀亦然氏は、自ら環江県で『1畝(1/15ヘクタール)で、6万5,000㎏のお米を収穫した』とのでっち上げ豊作劇をトップニュースに仕立てた。折しも廬山会議の後であった。党が正しいことを証明するために、中国共産党は全国で「反右派」を起こした。そして、共産党は全国ででっち上げた農産物の生産量に従って穀物の買い上げを実行した。農民の食料、種物、飼料は全て取り上げられた。徴収不足が出た場合、その場で農民が食料を隠したと農民のせいにした。
賀亦然氏は「柳州地区でどれほどの人が餓死しても、一位を争うのだ」と揚言した。ある農民は全てが取り上げられ、尿つぼに隠した一握りのお米しか残されなかった。環江県馴楽区委員会は、農民に対して、食料があっても食べられないようにするため、「火を消し、鍋をしまえ」とまでの命令を下した。民兵は夜間の巡回で明かりを見つければ、そこの家に対して捜査を行い、逮捕した。多くの農民は、野菜と樹皮を煮て食べることすらできず、餓死した。
過去において、凶作が発生した際、政府は国民に対し食料の供給を行い、凶作発生地区の人々が他の地区へ避難することは許されなかった。しかし、中国共産党は国民が避難すること自体、「党の威信」を損なうと考え、避難する人々が逃げ出さないように、民兵を派遣し、農村から他の地区への交通道路を封鎖した。凶作発生地区において耐えきれず、糧食管理所へ食料を盗みに来た人々は、銃撃され、鎮圧された。さらに、飢え死にしそうな国民を銃殺し、反革命者だとでっち上げた。当時、甘粛省、山東省、河南省、安徽省、湖北省、湖南省、四川省、広西省などの多くの地区には、餓死した人々の死体が至るところに放置されていた。ご飯を食べられない農民達は更に「水利を修理」、「鉄鋼を煉製」へと行かされ、歩きながら次々と倒れてしまう人が多くいた。しまいには、死者が出ても埋葬してあげる人さえいなかった。多くの村は、このように次から次へと消滅した。
中国史上最も厳しい大凶作の時代には、「子供を交換し食す」と言うことがあった。しかし、もっと酷いことに、中国共産党の統治下では、死人の肉を煮込んで食するということが、しばしば現れた。更に他の地区から逃げてきた人や、自分の子供まで殺して食べてしまうことも、発生した。次のような事例があった。「ある農家では家族は次々と食べられ、父親と一男一女の子供しか残らなかった。ある日、父親は娘を外へと行かせた。その後、娘が戻ると、弟がいなかった。あるのは、鍋に油が浮きプカプカとしている白っぽいものであった。そして、釜の横には骨が放リ出されていた。数日後、父親は又も鍋に水を足しはじめた。そして、娘を呼び寄せた。娘は恐れドアの外で号泣した。父親に『お願いです。お父様、私を食べないでください。私は芝刈りをし、火を炊いてあげます。私を食べたら、誰もお父様の面倒を見る人がいなくなります』」(作家沙青氏の報告文学『依稀大地湾』より抜粋)。
このような人倫の惨劇がどれほど起きたのかは、我々には分からない。しかし、このような惨劇を数多く作った中国共産党は、このような惨劇を歪曲して、党が人民を率いて「自然災害」に対抗する頌歌と為し、党は「偉大、公明、正しい」とまで自画自賛した。
1959年廬山会議で、人民のために請願した彭徳懐氏は、ひどい目にあわされた。多くの真実を語る幹部が、次々と免職させられ、監禁、尋問捜査された。大凶作が発生した時期になると、幹部らは自分達の職と地位を守るために、本当のことを語る者は誰一人としていなかった。多くの国民が餓死した真実も隠した。陝西省に対して、甘粛省が救援物資を提供する提案をした時、陝西省は自分達の食料は、食べきれないほどあると言う嘘偽りの口実で断った。
この大凶作は中国共産党幹部に対する検閲でもあった。中国共産党の基準によれば、彼らは、勿論「合格」した幹部達である。何故なら、彼らは数千万人が餓死した事実を隠しても絶対に本当のことは言わない。共産党の指示通りに行ったことに対し、自分の良心を左右する情けや天理などと言ったものはないのである。大凶作以降、人民の生死を見放した省の幹部らは、簡単な形式上の検討事項で事を終了させた。当時四川省の省委員会書記であった李井泉氏は、飢餓に瀕している数百万人を見放したにもかかわらず、後に西南局第一書記にまで抜擢された。
(四)文化大革命、「六四」から法輪功(ファールゥンゴン)まで
文化大革命は1966年5月16日に始まった。この期間は中国共産党の中で、「10年の災禍」と言われている。胡耀邦氏は、ユーゴスラビアの記者に「当時は、約一億人が連座された。中国の人口の10分の1に相当する」と述べた。
中国共産党史研究室などで合同編集した『建国以来歴史政治運動事実』の中で、次の数字が明らかにされた。「1984年5月、中国共産党中央は更に2年7ヶ月に亘り調査し、そして、事実を確かめてから、文化大革命に関連する数字を新たに統計した。420万人が監禁審査され、172万8千人余りが不正常の死亡者となった。13万5千人余りは現行の反革命の罪で死刑に処された。武力闘争中に23万7,000人余りが死亡、703万人余りが負傷して不具になった。7万1,200戸余りの家庭が完全破壊された」。専門家が中国県誌の記録に基づいて統計した数字では、文化大革命での不自然な死亡者数は、少なくても773万人と出ている。
殺人の他に、文化大革命の初期に、自殺の波が現れた。多くの著名な文人名士、例えば、老舎、傅雷、翦伯賛、呉口(日含)、儲安平などが自ら命を断った。
文化大革命時代は、中国が最も「左派」となり狂気じみた時代である。この時代「殺人」が、ある意味では「革命的」を表した。故に、「階級の敵」に対する虐殺も残酷さと野蛮さを極めた。
しかし、「改革開放」は情報の伝達を大きく発展させた。多くの海外ジャーナリストらも1989年、北京で起きた「六四」天安門事件で殺人を目撃し、戦車を使い学生達を轢き殺した映像を海外へ流すことが出来た。
江沢民は十年後、1999年7月20日に法輪功(ファールゥンゴン)を弾圧し始めた。2002年末、中国大陸の内部情報は、既に7,000人が各地の拘置所、強制労働収容所、刑務所及び精神病院で虐待され死亡したとしている。平均、一日に7人が虐殺されたことになる。
今日、中国共産党の殺人の数は過去のように百万人、千万人の単位にはなっていない。これには二つの大きな原因が絡んでいる。一つは、国民は中国共産党の党文化に支配され同化されている。もう一つは、中国共産党内の巨額の汚職行為及び国庫の公金の着服が、中国を「輸血型」経済にさせてしまったことだ。外資が中国の経済成長及び社会安定を維持する重要な柱となっている。中国共産党は「六四」天安門事件以降に受けた各国からの経済制裁の記憶が未だに生々しく残っている。公然と殺人を行ったならば、外資の撤退を招き、自らの統制を危険に曝してしまうからである。
しかし、中国共産党は、裏では殺人行為を止めてはいない。ただ表では極力、血まみれの事実を隠蔽しているのである。
二 残忍極まる殺人手段
中国共産党が行ったことは、全て権力奪取と権力を維持するためである。そして、殺人が権力を維持するための重要な手段であった。殺人方法が残忍極まれば極まるほど、殺される人数も増える。そうすることによって、更に多くの人々を脅かすことが出来る。このような恐喝は、戦争時代より以前から既にあった。
(一) 抗日戦争における華北の暴行
米国第31代大統領フーバー氏が、世界に向け雷震遠神父の著作『内部の敵』[10]を推薦した際、「この本の中で共産主義の恐怖に満ちた行動が、そのままむき出しにされている。全世界で広がっている共産主義と言う悪魔勢力について、本当のことを知りたい全国の皆さんにこの本を推薦する」と語った。
雷震遠神父は、著書の中で、中国共産党はどのような暴力を用いて民衆を恐喝するかについて、幾つかの物語を述べた。ある日、中国共産党は、ある村の全ての村民を村の広場へ集まるように指示した。子供も先生達に率いられて広場に集まった。彼らに13名の愛国青年が首を切られるのを見てもらうのが目的だ。でっち上げの罪名を読み上げられた後、共産党は既に恐怖で顔面蒼白になった教員らに、子供達と愛国の歌を歌うように命じた。歌声の中に出てきたのは踊り子ではなく、刀を手に持つ首切り人であった。『首切り人は、身体が丈夫で力が非常に強い凶悪な共産党青年兵だ。彼は一人目の犠牲者の背後に立ち、両手で幅の広い鋭い刀を持ち上げ、目にもとまらぬ速さで、スパッと切り落とした。首は地面に音を立てて落ち、鮮血がほとばしった。子供達の歌声はヒステリックになり、乱れた泣き声となった。教員らは拍子をとって音を整えようとしたが、混乱の中で鍾が鳴った』。
首切り人は刀を連続13回振り、13人の首を切り落とした。その後、中国共産党の兵士達が13人の遺体を切り開き、心臓などを取り出し、食すために持ち帰った。これらの行動は、全て子供達の目の前で行われた。「子供達は恐怖で顔面蒼白になり、何人かが嘔吐した。教員らが子供達を叱りながら、集合させて列を作って学校へと戻った」。
以降、雷神父は、子供達が強制されて殺人を見に行かされたのをよく見かけた。子供達はこのような血だらけの場面に慣れるまで、何度も同じ事を繰り返し見せられた。子供達は次第に麻痺し、中には殺人を見た刺激によって、快感を得る子供さえ出てきたほどであった。
中国共産党は殺人が恐怖に満ち、刺激的なものでなくなったと感じた時、彼らはあらゆる残虐きわまる拷問を考え始めた。例えば、大量の食塩を食べさせ、受刑者が渇ききって死亡するまで水は一滴も与えないでおく。又は、衣服を剥ぎ取り素っ裸にして、一面に砕かれたガラス破片の上を転がさせる。又は、真冬の凍りついた川に穴を開け、受刑者をその穴に放り投げ、凍死或いは溺死させる。
「山西省ではある共産党員が非常に恐ろしい刑罰を考えた。ある日、彼は町でぶらぶらしている時に、あるレストランの入り口で足を止めた。彼はご飯を炊いている大きい鍋をしばらく見つめていた。その後、彼は幾つかの大きい鍋を取り寄せた。反共産党の者を何人か捕まえて来て、いい加減な審判をし、鍋に水をいれ煮立たせた。審判終了直後、三人の受刑者は衣服を剥ぎ取られて鍋に放り込まれた。人間を生きたま茹でて死なせた。…平山で、私はある父親が生きたまま皮を剥ぎ取られて死亡したのを目撃した。彼の息子は、共産党によって、強制的に自分の父親が残酷に処刑されるのを見せられた。共産党は父親の身体に酢と酸類のものをこぼし、一枚の人間の皮が瞬く間に剥ぎ取られた。皮は背中の上部から徐々に両肩まで剥がされて行った。全身の皮が剥がれ、頭皮だけが残された。彼の父親は全身の皮を剥ぎ取られた後、数分後に死亡した」。
(二)「紅八月」赤色の恐怖と広西省人食い事件
中国共産党は、政権を手中にしてからも、暴行を慎む意思は全く見られず、文化大革命の時、このような暴行は更に発展し拡大された。
1966年8月18日、毛沢東は天安門城門で「紅衛兵」の代表と面会した。宋任窮の娘宋彬彬は、毛沢東から「紅衛兵」の腕章を授けられた。毛沢東は彼女の名前の由来が「上品で礼儀正しい」と言う意味を知り、彼女に「武力も必要だ」と言った。彼女は以降自分の名前を宋彬彬から「宋要武」に改名した。
意気込みに燃えた「武装闘争」がすぐに全国で展開された。これら中国共産党により無神論教育で育てられた若い世代は、何一つはばかる事はなく、恐れる事もなかった。共産党の直接指導の下、彼らは毛沢東の指示に従い、愚かにも、狂気じみた大胆不敵な悪事を働いた。むやみに人を殴打し、人の家財を奪い取るなどのことは全国に亘り多発した。多くの地区は「黒五類」(地主、資本家、反革命者、悪人、保守派)に対し、「根こそぎ抜き取る連座」の絶滅政策を取った。大興県が最も典型的な地区であった。8月27日から9月1日まで県内の13公社、48大隊に対し、前後325人を殺害した。年齢は、最年長で80歳、最年少はわずか生後38日だった。計22戸の世帯が全滅させられた。
「生きたまま人を殴打して死なせることは日常茶飯事。沙灘町で、“紅衛兵”の男子グループが鉄のチェーンと皮のベルトを使って、ある老婆を身動きできなくなるまで殴り続けた。そして、女子の“紅衛兵”が老婆のお腹の上を飛び跳ねたりして、老婆が息を引き取るまでお腹を踏み潰し続けた。…今回の運動の中で、崇文門付近にある“地主の老婆(独居の未亡人)”の家を“家宅捜査”した。紅衛兵は近所の各戸の人に熱湯の入っている魔法瓶を持って来させ、強制的に彼女の首に熱湯を注ぎ、首に火傷をおわせ、首の肉が煮え切れるまで止めることはなかった。数日後、家に放って置いた死体はウジに満ちていた。…当時の殺人方法は多種多様で何でもありであった。棍棒で人を殴ることも、鎌で人を切ることも、紐で絞め殺すこともあった。赤ん坊に対しては、更に残忍な手段を用いた。赤ん坊の片足を踏み押さえ、もう片足を強引に引き裂き、生きたまま二つに引き裂いた」。(遇羅文『大興虐殺調査』より)
大興虐殺より更に野蛮な事件は、広西省における人食事件であった。鄭義氏はそれを三つの段階に分けて分析した。[11]
一、初期段階:人目を忍んで行い、恐怖に満ち気味が悪かった。某県のある案件記録は、典型的な場面を記している:深夜、殺人犯らが殺人現場へ行き、死体から心臓を取り出したが、経験が無い上に恐怖の余り間違え、肺臓を持ち帰ってしまった。やもなく、再び殺人現場へ行った。…料理が出来た。家から酒を持って来た者、おつまみを持ち寄って来た者らは、かまどの消えかかった明かりを頼りに、声も出さずに食べ物を貪った…。
二、上昇期段階:日増しに、勢いが増している。この段階になると、心臓を取り出す経験は相当ある。その上、人肉を食べたことのある先輩ゲリラ隊員の伝授もあり、技術はできている。例えば、生きている人の胸部を切開するため、あばら骨の下部を、ナイフで「人」の形に切り、腹部に向けて足で踏みつければ(被害者がもし木に縛り付けられているならば、ひざを用いて腹部を目がけて押し込む…)、心臓と腹部の内臓が自然と飛び出す。先頭の者は心臓、肝臓、生殖器を切り取り、残りは他の者に、自由に分配させる。赤旗は風に翻り、スローガンが大きく響き、盛大で勇壮な場面なのである。
三、 群集全体が狂気じみた段階:特徴は一言で概括できる:人食い集団。例えば、武宣市では、まるで伝染病が氾濫した時、死体を食べて目を赤くした犬の群れのようであった。人々は人肉を食べる。気が狂ってしまったように食べまくる。何かするとすぐに人を引っ張り出して「批判闘争」を行う。そして、批判闘争の後は必ず彼らを食べる。一人が倒れれば、息を引き取ったかどうかも構わずに、大勢の人が群れをなして押し寄せる。それぞれが事前に用意してきた包丁やナイフを倒れた人を目がけてどこの部分でも構わずに人肉を切り取る。…ここまで来ると、一般の群集も人食いの流れに巻き込まれて行く。ほんの僅か残された罪悪感と人間性も、「12級台風の階級闘争」によって、綺麗さっぱり吹き飛ばされてしまう。人食いの疫病は武宣市を席巻した。最頂点に達した時の形式は、「人肉宴席」と言っても、全く誇張ではなかった。人の肉、心臓、腎臓、ひじ、関節、関節の筋を…蒸す、煮る、焼く、炒める、餡かけにする、油で焼くなど、盛りだくさんの料理を作り出した。そして、酒を飲み、拳を打ち、論功行賞を行う。まさに人食い最高の時期に達した。最高権力機構である「武宣県革命委員会」の食堂でさえ、人肉を調理したことがあるのだ!
これら人食い宴会は、決して民間での自発的な行為ではない。全体主義組織としての中国共産党の社会に対する制御は、一つ一つの細胞まで浸透している。背後の中国共産党の煽りと操縦がなければ、このようなことは決して起こりえない。
中国共産党は自らの賛歌で、「旧社会[12]は人を鬼に変え、新社会は鬼を人に変える」と唱っている。それぞれの人食い宴会が反映したこととは、中国共産党は人を更に残忍非道な者に変えることができるということだ。何故ならば、中国共産党自身が残忍非道の悪魔より凶悪だからだ。
(三) 法輪功(ファールゥンゴン)迫害
今や中国人もまたコンピューターと宇宙飛行の時代に入り、私生活でも人権、自由と民主について語ることができるようになった。多くの人々はにあった恐ろしくてぞっとする、気味悪い暴挙は既に過去の出来事と思い、中国共産党は文明のコートを着て、世界と共に行動する時代になったと思っている。
しかし、現実はそうではない。中国共産党がある団体は彼らの拷問と虐殺を恐れないと知った時、あらゆる手段が更に狂気じみたものとなった。そして、その残忍な迫害を受けているのが法輪功(ファールゥンゴン)なのである。
紅衛兵の武装闘争と広西省の人食いは、相手の肉体を消滅させるのが目的である、数分間あるいは、数時間で一つの命を断ち切るというものである。それに対して法輪功(ファールゥンゴン)修煉者に対する迫害の目的は、彼らに「真・善・忍」の信仰を放棄させることが目的である。しかも、残忍な酷刑は常に数日間も、あるいは数ヶ月間、数年間も続いている。統計によれば、既に一万人の法輪功(ファールゥンゴン)学習者がこのために命を失った。
九死に一生を得た法輪功(ファールゥンゴン)の修煉者は、彼らが受けた百種類を超える拷問の数々を記録した。以下にその中の幾つかの例を挙げる。
ひどく殴打する手段は、法輪功(ファールゥンゴン)学習者に対して最も多く使用される拷問の一つである。警察官や獄吏らは、学習者をその場で直に殴打する他に、受刑者らにも学習者を殴打するように指示する。一部の学習者は、ひどい殴打によって耳が聞こえなくなったり、耳が裂けたり、耳が切れて取れたり、眼球が飛び出たり、歯が折られたりした。又、頭蓋骨、脊髄、肋骨、鎖骨、腰椎、腕、足の骨はひどい殴打によって折られたり、切断されたりした。又、男子学習者の睾丸を強く握りつぶしたり、女子学習者の陰部を強く蹴ったりした。学習者が屈服しなければ再び刑にかける。学習者らは皮膚が裂け、傷口の肉はぱっくりと開き、血だらけになり、元の形に戻らず変形するまで殴打され続ける。更に、塩水をかけ、高圧スタンガンで電気ショックを与え、血の生臭さと肉を焦がした臭いが悲鳴と共に交じり合う光景は、人の心が引き裂かれるほど強烈なものがある。又、屈服させるために、ビニール袋を頭に被せ、窒息する恐怖の中で殴打し続ける。
電気ショックは、中国の強制労働収容所で最もよく使われる拷問の中の一つである。警察官はスタンガンで、学習者の最も敏感で弱いところ、口腔、頭頂部、胸、陰部、女子学習者の乳房、男子学習者のペニス、肛門、太腿、足の裏などに電気ショックを与える。一部の警察官は、身体の至るところに電気ショックを与える。又、一度に数本のスタンガンを同時に学習者の身体に当て、肉を焦がした臭いが出るまで当て続ける。電気ショックを受けた学習者の身体は黒紫色を呈す。一部の学習者は頭頂部と肛門に同時に電気ショック与えられた。警察官は一人の学習者に対して10本、あるいはそれ以上のスタンガンを同時に使うこともしばしばあった。更に電気ショックを与える時間を長くした。このスタンガンは通常数万ボルト以上である。電流を連続して流す時には青い光を放ち、耳障りなピシピシという音が出る。 電流は人の身体に当てた瞬間、一気に火傷をしたような感じで、同時に蛇にでも咬まれたような感じがする。電撃される度に、蛇に咬まれたような激痛が走る。そして、電気ショックを受けた箇所は、すぐに赤くなり、肉が裂け、焦げて膿が出てくる。更に高圧のスタンガンによって、電気ショックを受けた場合は、まるで頭頂部を鉄鎚で、勢いよく叩かれたように凄まじいものである。
また、タバコの火を手、顔、足の裏、胸、背中、乳頭に当て、ライターの火で手、陰毛を焼き、加熱して赤くなった鉄線を両太ももに押し付ける。赤く焼かれた木炭を学習者の顔に押し付けて焼く。あらゆる拷問で虐待され瀕死状態になった学習者を生きたまま焼死させた後に、外部に対して「焼身自殺」として報道する。
女子学習者に対しては、胸及び乳房、下半身めがけて殴るのである。スタンガンを乳房と陰部に当て、電気ショックを与える。更にスタンガンを膣に入れて電流を流す。また、四本の歯ブラシを一束にして、女子学習者の膣に強引に入れ、歯ブラシを強くこすり回す。火かき棒で女子学習者の陰部を引っ掛ける。女子学習者の両手を手錠で後ろ手に掛け、電線を両方の乳頭に通し電気ショックを与える。女子学習者の衣服を剥ぎ取り素っ裸にし、男性牢屋へ入れ、男性犯罪者らに凌辱させる。
「恐怖の拘束服」[13]を法輪功(ファールゥンゴン)学習者に着せ、両手は後ろで交差させ縛る。更に後ろで交差させた両腕を両肩の上を通って胸の前まで引っ張る。両足を縛ってから、窓の鉄棒に宙吊りにされる。口を布で塞がれ、耳にヘッドフォンを付けられ、法輪功(ファールゥンゴン)を汚す録音を延々と聞かされる。この酷刑を受けた者は、その場で両腕に傷害が残る。先ずは両肩、両肘、両腕の箇所の筋が切れ、骨に亀裂が生じる。拷問の時間が長ければ、背骨も裂けて折れる。学習者は生きたまま痛みを嘗め尽くして死んで行く。
また、学習者を汚水、あるいは糞尿の中に全身を浸させる「水の牢」という酷刑がある。他には、先が鋭く削られた竹串を学習者の指先に差し込む。天井とほとんど隙間の無い狭い棚の上、又は、冷たい床に寝かす、至る所に赤、緑、黄色、白のカビが生えている部屋に入れられ、シェパード犬や毒蛇、蠍を使って学習者を咬ませる。神経を破壊する薬物を注射させるなど、その他奇奇怪怪な虐待手段が山ほどある。
三 党内の残酷な闘争
共産党は道義による結合の団体ではなく、党の本性によるものである。特に最高指導者に対する党員の忠誠心の高さが、非常に重要視される。よって、党内でも殺人事件が必要となる。最高独裁者が誰かを死なせたい時、その人の死に方が如何に悲惨であるかということを、周りに残った人達に、その恐怖を味合わせ、戒めとする。
従って、共産党の党内闘争も非常に有名だ。ソ連共産党で連続二度務めた前政治局委員の中で、先に亡くなったレーニン及びスターリン本人以外は、全ての委員は処刑され又は自殺した。当時、五人の元帥の内、三人が銃殺刑で処刑された。五人の集団軍司令官の内、三名が銃殺刑で処刑された。二等軍団及び師団の司令官10人が全て銃殺刑で処刑された。そして、85人の軍司令官の内、57人が処刑され、195人の師団長の内、110人が処刑された。
中国共産党も、常に「残酷闘争、無情な仕打ち」を鼓吹している。このような殺人闘争は、単なる党以外の者に対するものだけではなく、江西省にいた頃から中国共産党は、既にAB団を殺害している。[14] 殺人闘争の末、戦争の出来ない者しか残らなかった。延安市にいた頃は「整風」(思想と活動態度を正す)を行った。政権を打ち立ててから高崗、饒漱石、胡風、彭徳懐を粛清した。文化大革命になった時に、党内の古参はほとんど粛清され、誰も残っていなかった。中国共産党の歴代の総書記は、誰一人良い結末を送る者はいない。
中国の国家主席を務め、一度は中国国内の第二番手の地位にいた劉少奇は、このような悲惨な状況の中一生を終えた。彼の70歳の誕生日に、毛沢東と周恩来は特別に汪東興を派遣し、劉少奇にラジオをプレゼントした。彼に第八回の十二中国全国人民大会の公報、「反逆者、敵に内通する人、労働運動の裏切り者にされた劉少奇を永遠に共産党から除籍し、彼と彼の仲間が党及び国を裏切った罪状について、清算し続ける」を聞かせるのが目的であった。
劉少奇は、精神的に瞬く間に崩れ、病状は悪化した。彼は長期にわたりベッドに縛り付けられ固定されていたため、首、背中、お尻、踵は床ずれとなり、痛みと共に膿が出ている状態であった。彼は痛みに耐え切れず、側にいる人の衣服や腕に強く掴まるようになった時、彼らは劉少奇の手に硬質ポリ容器を握らせた。彼が世を去った時、二つの硬質ポリ容器は瓢箪の形になっていた。
1969年10月、劉少奇は、既に全身がひどく爛れ、生くさい臭いを放っていて、枯れ木のように痩せこけていて、息も絶え絶えとなっていた。中央特派員は彼に風呂も許さず、衣服も換えさせなかった。彼を素っ裸にし、蒲団詰めにして飛行機で北京から開封市へと送り、トーチカの地下室に監禁した。彼が高熱を出しても薬を与えなかった。その上、医師や看護士を彼の側から全部移動させた。劉少奇は臨終の際、まったく面影もなく、ぼうぼうとした白髪は二メートルもあった。二日後の夜半、急性伝染病患者として火葬処理された。使用した蒲団、枕など全ての遺物は共に火葬され、何も残されなかった。劉少奇の死亡書には次のように書かれていた『氏名:劉衛黄、職業:無職、死因:病死』。
中国共産党は国家主席まで死に至るまで迫害する、しかも死因ははっきりしない。
四 革命を輸出し、海外で殺人を行う
中国共産党は国内、党内で殺人を繰り返し、そのやり方を新しく変えたほか、更にこの種の革命を輸出し、海外で華人を虐殺することにも参与した。カンボジア共産党が最も典型的な例である。
ボルポトはカンボジアで政権を4年間維持しただけだが、1975年から1978年の間、人口800万人足らずの小さい国で200万人が虐殺された。その中に二十数万人の華人も含まれている。
ここではカンボジア共産党の罪状を論じないが、カンボジアと中国共産党との関係については語る必要がある。
ボルポトが最も崇拝するのは毛沢東である。1965年より彼は四度も中国を訪ね、毛沢東に教えを受けた。1965年11月、ボルポト氏は中国を訪問し三ヶ月間滞在した際、既に陳伯達と張春橋などから「武力で政権を打ち立てる」「階級闘争」「プロレタリア階級独裁」などの理論と実践を学んだ。これらの理論と実践は、彼がその後カンボジアで政権を奪取、建国、国を治める依拠となった。帰国後、彼は党の名称をカンボジア共産党と改名し、中国共産党を真似、農村から都市を包囲する攻め方で、自らの革命拠点を造った。
1968年、カンボジア共産党は正式に軍隊を作った。1969年末現在、軍隊の人数は、多くみても3,000人程度であったが、1975年、彼がプノンペンを占領する前、なんと「完全装備で、勇敢に戦う」8万人の武装軍隊まで発展した。これは完全に中国共産党の後援でできたものだ。王賢根氏の著作『ベトナムを援助、米国に抵抗の実録』[15]によると、1970年だけで、中国はボルポト氏に対して三万人の武器装備を援助した。1975年4月、ボルポトはカンボジアの首都を攻め落とし、二ヵ月後に中国共産党の指示を得るために、北京を訪ねた。赤いカンボジアでの殺人は、中国共産党の理論と物資の支援がなければ、単独では実行できないことが歴然と判明したのである。
ここで一つの例を挙げる。シアヌーク殿下の二人の息子が、カンボジア共産党に殺害された後に、周恩来の一言で、カンボジア共産党はおとなしくシアヌーク殿下を北京へ送った。カンボジア共産党は、災いを残さないように、殺人する時には腹の中の嬰児まで殺すのが、周恩来の言葉には、文句も言わずに直ちに従ったのである。
しかし、周恩来の一言でシアヌーク国王を救えたにもかかわらず、カンボジア共産党が二十数万人の華人を虐殺する際、中国共産党は一言も発しなかった。当時、中国側は大使館に救いを求めに来た華人を全く無視し、何の行動も起こさなかった。
1998年5月、インドネシアで起きた大規模な虐殺事件、華人を強姦した事件に関しても、中国共産党はひたすら沈黙していた。援助の手を差し伸べなかっただけでなく、中国国内で懸命に情報を封鎖した。まるで海外の華人の死活問題は、中国政府と全く無関係であると言う対応の仕方で、人道的な援助は何もしなかった。
五 家庭壊滅
中国共産党は、政治運動を起こす度にどれほどの人々を殺害したか、正確な数字は既に集計できなくなった。地域、民族、言語の隔たりがあるために、民間の資料は不足しており、統計もない。中国共産党は、なお更自ら墓穴を掘るようなことはせず、もちろん死亡者数の政府筋の統計はない。このように、中国共産党は自身の歴史については常に「内容は粗く適当にするのがよい、細かいことはしない」というやり方である。
中国共産党が壊した家庭の数については、更に確認できない。一人が死亡すれば、家庭崩壊になる場合もあるし、あるいは一家全員が、次々に死んでいって消滅する例もある。たとえ家庭の中に死人が出ていなくても、強引に離婚させられたり、親子関係を完全に断ち切られたり、虐待されて身体障害者になったり、迫害を受けて気が狂ったり、虐められて重い病に倒れて早死にしたりなど、全てが家庭にとって悲劇である。これらに関する数字はとても集計できない。
日本の読売新聞の報道によれば、中国は人口の半分以上が、中国共産党の迫害を受けたことがあるとされていた。もしそうであれば、中国共産党が破壊した家庭は少なくとも億以上の数に上るであろう。
張志新はルポにより津々浦々まで知れ渡る人物となった。多くの人は、彼女が残忍な酷刑を嘗め尽くし、輪姦と精神的な虐待を受けて、最後は精神異常になった時に喉を切られ、銃殺された事を知っている。しかし、この悲劇の背後に更なる残忍な物語が残されたことについては多くの人は知らない。…『死刑囚の家族学習班』。
張志新の娘である林林さんは、1975年初春の頃に起きたことを回想した。「瀋陽裁判所から来た人が、私に向かって大声で:君の母親は非常に頑固で、反発的で、改めない。偉大なリーダー毛主席に反発し、無敵である毛沢東思想に反対し、毛主席のプロレタリア階級路線に反対している。罪に罪を重ね、政府は刑罰を更に追加することを考えている。極刑にする場合、あなたはどんな態度を示すのか?」…私は驚いて、どう答えればいいのか分からずに放心していた。心は瞬く間に乱れてしまった。しかし、冷静を装い、涙が出ないように我慢した。父が、決して他人の前で涙を見せるな、そうでなければ、母親と別の態度であるということを区別できなくなるからだ、と言われたことがあった。父親は、私の代わりに『そのようなことが確実であれば、政府が望むように処理して構わない』と答えた。裁判所の者に『極刑後、遺体は持ち帰るのか?』と聞かれ、私は頭を下げたまま言葉を発せなかった。又も、父親が代わりに『我々は何も要らない』と答えた…。父は私と弟を連れて、県の宿泊先を出て、風雪の嵐の中でよろよろと歩いて家に戻った。ご飯は炊かず、父は残った唯一の饅頭を二つに分けて私と弟にくれた。『早く食べて早く寝るように』と父が言った。私は静かに床の上に横になっていた。父は一人で、腰掛に座って、明かりを見つめてぼうっとしていた。父は私と弟が寝たと思い、ゆっくり起き上がって、瀋陽の家から持ってきた箱を開け、母の写真を取り出して見ている内に、父の目から涙がこぼれ落ちた。私はベッドを飛び降りて、父の胸へ飛び込んで号泣した。父は『静かに、隣近所に聞こえてしまう』と呟いた。私の鳴き声で弟も起きた。父は私と弟を自分の胸に強く抱きしめた。この夜、私達はどれほどの涙を流したのか分からなかった。でも決して大声で泣くことはなかった」。[16]
某大学の教師は、幸せな家庭を持っている。しかし、右派を改革した時、彼の家庭は災難に見舞われた。彼の妻は反右派の時代に自分の恋人が右派にされ、流刑に処され、僻地へと飛ばされた。若い彼女は、彼と共に暮らせないので、他の人と結婚した。そして、若い時に分かれた恋人が、苦難を嘗め尽くして、やっと故郷に戻って来た。数人の子供の母親である彼女は、過去においての自分自身の薄情と、彼に対する裏切りの行動を悔やんで、良心に従い、自分が作った罪の償いをするために、今の夫と離婚することを決意した。しかし、突然の異変は彼女の夫——55歳の大学教師にとって、とても耐え難いことであった。夫はそれ故に精神異常になった。彼は素っ裸で、自分の居場所を捜し求めて外で徘徊するようになってしまった。彼の妻は結局夫と子供のもとを去った。共産党が作った別離の悲劇は、解読のできない方程式である。ある引き裂きの悲劇を、別の引き裂きの悲劇に取って代え、延々と続く社会にとっての不治の病だ。
家庭は中国社会の基本単位である。伝統文化が共産党文化に対抗する最後の防衛線である。それ故、家庭破壊は中国共産党の殺人歴史に於いて、最も残虐で悪辣な所行である。
仮にある人が批判や攻撃対象になった時、中国共産党はその人にとっての資源を社会から全部断ち切る。その人は直ちに生活の危機に陥り、社会の人々から白い目で見られ、差別され、尊厳は剥奪される。只、このようにされた人々は全て冤罪を負わせられた人達である。自然と家庭が彼らにとって最も安心のできる避難場所になる。しかし、中国共産党が取っている連座政策は、家族が互いに慰めることが出来ない。そうでなければ、家族も攻撃対象となってしまう。張志新氏はこのように強制的に離婚させられたのだ。大部分の人にとって、身内の背信行為、密告、反発、告発と批判闘争は、まさに正常精神を支える最後の砦が、押しつぶされることであり、多くの人がこのように自らの命を断ってしまった。
六 殺人手段及びその結末
(一) 共産党殺人の理論指導
共産党は常に自身のことを吹聴し、創造的にマルクス・レーニン主義を発展させたと自己宣伝するが、実は共産党は古今近来国内と海外のあらゆる邪悪なものを創造的に発展させたのだ。共産主義の大同思想で民衆と知識人たちを騙し、工業革命を利用して信仰を打ち砕き、徹底的に無神論を広げた。共産主義で私有制度を否定し、レーニンの暴力革命理論と実践で国家を統治すると同時に、中国文化の伝統と背理した最悪の部分を結び合わせた。
中国共産党は自分で発明したプロレタリア階級独裁下にある「革命」と「継続革命」の理論及び手段をもって世界を改造し、共産党の独裁を保障させている。その理論はプロレタリア階級独裁下の経済基礎及び上層建築の二部に分かれている。経済基礎により上層建築が決まり、一方、上層建築はまた経済基礎に反作用をしている。従って、特に党の政権を含む上層建築を強化するためには、必ず経済基礎から革命を行わなければならない。それには次のことが含まれる。
1.地主を殺害して農村の生産関係[17]を解決
2.資本家を殺害して都市の生産関係を解決
上層建築に於いても殺人は繰り返されている。目的は意識形態上の絶対的独占を保障させることである。それには次のことが含まれる。
1.知識人が党に敵対する政治的な態度をとる問題を解決する
中国共産党は長期に亘って「知識人の思想改造運動」を起こし、資本家階級の個人主義、資本家階級思想、超政治観点、超階級思想、自由主義などなどを批判した。洗脳し、心を殺して知識人たちを堕落させる。知識人が持っている自由思想及び優良な品格、例えば「正義のために公平なことを言う」。「正義のために身を捨てる」。「貧賤でも志を変えない、武力や勢力でも屈服させることはできない、財産や地位に惑わされない」。[18] 「先に国を憂い、民を憂い、国も民も安泰としてから自分を楽にする」。[19] 「天下の興亡については、国民の一人一人に責任がある」。[20] 「君子は成功すれば天下も良くなり、出世しなければ個人の道徳修養のみに専念する」[21]のような伝統は一掃された。
2.中国共産党が文化及び政治における絶対的リーダー権を確立するため、文化大革命で虐殺を行った
党内から党外まで群集運動を引き起こす。文学、芸術、観劇、歴史、教育などの領域から始めた。先ずは全国で何人かを虐殺する。例えば「三家村」[22]、劉少奇、呉(曰含)、老舎、翦伯賛などの有名人をやり玉に挙げ、「党内の一部分」、「軍内の一部分」へ広げ、全人民が互いに殺害しあうまで発展させた。武装闘争は肉体を消滅し、文化闘争は魂を消滅させる。それは共産党操縦下の混乱時期であり極度に荒々しい時期でもあった。人間の悪の部分が共産党党内の危機に触発され、最大限まで引き伸ばされた。個々の人が「革命の名義」を使って、「共産党及び毛主席の革命路線を護衛」の名目で任意に人を虐殺することができる。これは正に、全人民の人間性を絶滅させる空前絶後の訓練である。
3.文化大革命以降の社会に於ける民主の呼びかけを解決するため、中国共産党は「六四」天安門事件で人々を銃殺した
軍隊が公に国民を虐殺することはこれが最初である。国民が汚職行為に反対し、役人と商人の結託に反対し、制度の腐敗を反対するために上げた声、報道の自由、言論の自由、結社の自由の呼び声を弾圧するためである。軍隊は互いに牽制させ、軍が人民を憎むようにさせるために、中国共産党は軍隊の車が焼かれ、兵士が殺される場面をまででっち上げた。そして、人民軍が群集を虐殺する悲惨な事件を引き起こさせた。
4.異なる信仰の人を虐殺
信仰領域は中国共産党にとって最も重要なものだ。中国共産党の歪んだ理論と邪説が世を暫く騙すようにするため、中国共産党は政権を取った初期からあらゆる信仰体系を消滅し始めていた。新しい時代に於ける精神的信仰———法輪功(ファールゥンゴン)の修煉者達に対し、中国共産党は再び虐殺用の刀を持ち出した。修煉者は、「真・善・忍」に基づき、社会において「善い人」になることを目指している。その善良さにつけこみ、「悪いことはしない」「暴動や社会を不安定にさせることはしない」ことをいいことに、修煉者らへの弾圧を重ね、更に他の全ての信仰団体をも消滅させた。今回は中国共産党の首領江沢民が、自ら先頭に立ち殺人を指示した。
5.情報隠滅のために殺人
真実を知る権利は、中国共産党のもう一つの弱点だ。中国共産党は情報を封鎖するために人を殺す。過去において「敵のラジオを盗み聞き」すれば、牢獄行きの罪になる。しかし、今はテレビに真相を伝える割り込み放送に対しては、「その場で殺せ」の秘密指令が出されている。劉成軍さんは、この理由で酷刑を受け虐待されて死亡したのだ。中国共産党は、ゲシュタポのような組織610オフィス、警察、公安、検察、裁判所及び膨大な警察ネットシステムを利用し、全ての群集の動きを監視している。
6.私利私欲のために人々の生存権を剥奪
共産党は、実は政権を手放せないのが問題である。それ故、継続的革命論を唱え続けたのだ。現段階では、中国共産党の汚職、公金を着服するなどの内部腐敗は極まっている。そして、党の絶対的政権と国民の生存権を争う問題までに発展している。国民が法律の範囲内で権利を行使する時に、共産党は又もや暴力を使い、残虐な「リーダー潰し」を行っている。中国共産党はこのために既に百万人の武装警察官を用意している。「六四」天安門事件の時、正規軍を投入したが、今では武装警官による殺人の準備をしている。国民に活路がなくなった時、中国共産党が自ら破滅へ歩む時である。その政権は既に草や木まで敵兵に見えるほど、ひどく怯えていて、情勢が非常に不安定となっている。
上述を総合して、共産党は本質的に邪悪な霊体で、絶対的に人々を制御するために一時の変化があっても、共産党は過去に於いて人を虐殺し、現在に於いても人を虐殺し、将来に於いても人を虐殺することがはっきりと分かる。共産党の歴史は変わらないものであるということが分かる。
(二) 状況に応じ異なる殺人手段を使用
1.世論先行
中国共産党はあらゆる殺人方法を用いた。異なる時代には異なる殺人手段がある。大多数の殺人は「世論先行」である。共産党は常に「殺人しなければ民衆の怒りは抑えられない」と言っているが、まるで国民の要求に応じて殺人したようである。実質上、「民衆の怒り」は、中国共産党が煽り出したものであった。
例えば“白毛女”の劇は、民間の伝説物語を改竄したものであった。劇中に登場する地主“劉文彩”は実在するが、地代を厳しく徴収したり、水牢の拷問などもすべてでっち上げられたもので、人々に地主を恨むように「教育」することが目的だ。この種の「敵」を妖怪化したやり方は今までもずっと用いられて来た。国家主席でさえ妖怪化することが出来る。法輪功(ファールゥンゴン)に対しても「天安門焼身自殺事件」をでっち上げ、民衆の法輪功(ファールゥンゴン)に対する敵意を引き起こした。その後、法輪功(ファールゥンゴン)の学習者達に対して、ジェノサイド(集団虐殺)の方法で迫害を加えた。共産党はこのような殺人方式を改めることなく、情報伝達技術の発達に連れ、ますますエスカレートしている。以前は中国人のみを騙したが、今は外国人までも騙す。
2.群衆を煽動し殺人を教唆する
共産党は自ら殺人を起こすほかに「群衆を煽動し、殺人を教唆する」ことをしている。もし初期において規則法律があっても、群衆の殺人がエスカレートした時には、取り締らなくなる。例えば、「土地改革運動」の時に、一土地改革委員会が地主の生死を決めることが出来るのだ。
3.先ず魂を殺し、そして肉体を殺す
殺人のもう一つの手段は「先ず魂を殺し、そして肉体を殺す」である。過去の歴史に於いて最も残虐な秦の王朝でも、精神を虐殺することはなかった。しかし、中国共産党は、人にそう言う正義のために、粛然として死に臨むような機会を与えない。「白状した者は寛大に、抵抗する者は厳重に処分する」、「頭を下げて罪を認めることが唯一の生きる道」しかない。必ず自身の思想と信仰を放棄させ、犬のように何の尊厳もない状態で死なせるのだ。そうしなければ、烈士のように正義のために死ぬ気概は、他の人を鼓舞してしまう。卑しい死に方こそが、中国共産党が達成したい、未来の人達に対する「教育」の目的である。中国共産党が現在残虐極まる迫害を法輪功(ファールゥンゴン)に加えている理由が、法輪功(ファールゥンゴン)は、命より信仰を重んじるからである。彼らの尊厳を打ち砕けない状態で、中国共産党は彼らの肉体に虐待の限りを尽くす。
4.暴力と甘い餌(アメとムチ)を施しながら殺人する
殺人の過程において、中国共産党は「ニンジンと棍棒」、暴力と甘い餌を同時に用いる。共産党は常に「ほんの僅かな部分を打撃する」と言う。5%の比率に例え、「大多数の人」が常に良い人で、常に「教育」の対象になる。この種の教育は「恐怖」と「保護」の二つが使い分けられる。「恐怖」とは、共産党と対立すれば必ず悪い結末を迎え、打撃対象の人々とは距離を持つように戒められる。「保護」とは、共産党の信頼を得られれば、党の味方であり、安全が確保され、重用もされる。もしかしたら、何かの勝利品をも分けてもらえる。林彪は「今日は少し、明日も少し、合わせればたくさんになる」と言った。しかし、一つの運動を幸いにも安全に避けられた人は、往々にして次の運動における犠牲者となるのだ。
5.「芽の内に摘み取る(芽生えた時に消滅させる)」殺人モデルと「隠蔽された違法殺人」の殺人モデル
今のところ中国共産党は「芽の内に摘み取る」、「隠蔽された違法殺人」という殺人モデルをさらに発展させている。例えば、各地での労働争議や農民の抗争が増えつつあり、中国共産党は「芽の内に摘み取る」の原則に基づいて、その都度「リーダー」を逮捕し、重刑を加える。また、人権と自由が世界の共通認識であり、時流となっているので、中国共産党は決して法輪功(ファールゥンゴン)学習者に対して死刑を下さない。しかし、江沢民の「殴打して死なせても当たり前」の教唆と放任の下、各地で法輪功(ファールゥンゴン)学習者が、拷問によって死亡した悲惨な事件が頻繁に起きている。また、憲法では公民が陳情する権利を有することに対して、中国共産党は私服警察、甚だしくに至ってはヤクザ、チンピラを雇い、陳情する公民を「阻止」し、逮捕し、強制送還している。更に陳情する人々に対して、強制労働させることまで起きている。
6.見せしめにする方法の殺人
張志新、遇羅克[23]、林昭[24]などを迫害。
7.殺人はしないと言う口実で殺人事件を隠蔽
国際的に影響力のある人に対し、中国共産党は往々にして弾圧に留まり、虐殺はしない。影で影響力の少ない人達を虐殺するのが目的である。例えば、反革命を鎮圧する時に、国民党の将校、龍云氏、傅作義氏、杜聿明氏などは虐殺されなかったが、それより以下の官員及び兵士がほとんど虐殺された。
長期にわたる殺人は、人々の魂を異なるものにしてしまった。現在、中国国内では多くの人々が殺気立っている。「9.11」テロ事件が起きた時、中国大陸のネット上では何と、喝采が起きた。超限戦を鼓吹することも絶えなかった(超限戦とは中国空軍の大佐が唱えた現代の戦争に対する新しい概念で、あらゆる限定と限界を超えた戦争を意味する。貿易、金融、テロ、ハイジャック、サイバーテロなどすべての場が戦場になるため、民間人をも平気で巻き込む恐ろしい戦争形態である)。この状態は考えただけでもぞっとする。
結び
中国共産党が情報封鎖しているため、我々は共産党の統治期間中、人々が迫害され死亡した確実な数字は分からないが、上述の例だけでもそれぞれの運動で少なくても6千万人が死亡した。その他、中国共産党は新疆、チベット、内モンゴル、雲南省などの少数民族に対してもの虐殺を行った。しかし、それらに関連する資料の入手は更に難しい。『ワシントンポスト』の統計によれば、中国共産党が迫害した人々の数は8千万人余りに達している。[25]
迫害致死した人のほか、身体障害者になった人、精神異常になった人、怒りで亡くなった人、恐怖によって死亡した人、ストレスで亡くなった人なども数多くいる。勿論、それについても確実な数字は分からない。一人の死はその人の家族にとって、骨身に染みる、忘れることのできない痛ましい悲劇である。
日本の読売新聞は、一度このような報道をした。中国共産党は全国29の省及び市に対して、次のことを調べ、統計を纏めた。文化大革命に影響を受けた人口は6億人で中国人口の半分を占めている。[26]
スターリンは次のように話したことがあった。「一人の死は悲劇だが、百万人の死は只の数字だ」。李井泉は、四川省において、どれほどの人々が餓死したことを聞かされても、平然として、次のように語った。「どの時代でも人は死んでいるのだ」。毛沢東は「奮闘をすれば必ず犠牲も出る。人が死ぬと言うことはよくあることだ」と言った。これが無神論者である共産党の生命に対する態度である。スターリンは、2千万人を迫害し殺害した。これは前ソ連人口の10分の1を占める。中国共産党は8千万人を迫害し殺害した。これも、中国人口の約10分の1を占める。カンボジア共産党は200万人を虐殺した。カンボジア人口の4分の1を占める。現在の北朝鮮では餓死した人の数は100万人を超えたと言われている。これらは全て共産党が作った罪悪である。
邪教は人を殺して、その人の血で邪霊を祭る。共産党は設立時から殺人を利用し、外部の 人を殺せなければ、内部の人を殺す方法で彼らの「階級闘争」、「路線闘争」の邪説を奉った。 更に自分達の総書記、元帥、将軍、部長などまでも、邪教の祭壇へと差し出し、生贄として 奉るということまでもやってしまった。
多くの人は、中国共産党に対して、彼らの殺人は以前に比べ控えられているのだから、改善するために時間を与えるべきだと言っている。しかし、例えば一人の人間を殺害すれば、直ちに殺人犯とされる。広範囲で言えば、虐殺は中国共産党が、テロリズム的統治の目的を達成するための手段の一つである。従って、虐殺する人の多さは需要によって調整することが出来る。それは「予測不可能」と言うことで表すことが出来る。人々にとって、恐怖をあまり感じない時、多くの人を虐殺すれば、恐怖心を与えることができる。元々人々が恐怖感を非常に感じている時、小人数の虐殺だけでも、十分にテロリズム的なコントロールが出来る。そして、人々は知らないうちに怯えている時、中国共産党は虐殺するのだと掛け声を掛けるだけで、人々に恐怖感を与えられる。中国共産党のテロリズムに対して、条件反射する際、中国共産党は虐殺と言う言葉すら出す必要もない。政府が大批判することを喧伝するだけで、人々の心の底に潜んでいる恐怖感を蘇らせることが出来る。
人々の恐怖感が薄れてくれば、中国共産党は直ちに虐殺の調整を図る。従って、中国共産党にとってどれ位の人を殺すのかが目的ではなく、重要なのは、殺人の一貫性を維持することである。中国共産党は今でも全く温かい心は無く、殺人の刀も下ろした訳ではない。人々が奴隷化されただけである。一旦、人々の政府に対して求めるものが、中国共産党の容認する限界を超えると、中国共産党は決して容赦はしない。
また、まさに恐怖を維持するために、任意に虐殺することも最も多く使用される手段である。これまでの大規模な虐殺では、わざと虐殺の対象、罪状及び刑罰を明確にしていないため、多くの人々は自分達がこれからもその対象にされないように、自ら「安全な区域」に身を引く。この「安全な区域」の区画範囲は、時には共産党が定めたものよりも狭いことがある。これも、何故その都度人々は「左派に傾くことがあっても、決して右派には傾かない」ことの理由である。毎回の運動の「拡大化」は、その都度人々が、自分を守るために自主的に条件を厳しくしたのが原因である。運動の対象が下の階層へ行くに連れ残虐さも増す。このような社会全体に行き渡る恐怖の自動的な増幅と効果は共産党の任意の虐殺に由来するものである。
長期にわたる虐殺の歴史の中で、中国共産党は変態と化した連続的殺人狂人に変異した。虐殺を通じ、自らがあらゆる大権を手に持ち、生殺与奪が出来る変態的快感を満足させる。虐殺を通じ、自らの内なる怯えを緩和させる。絶え間なく続く虐殺を通じ、今まで虐殺したことによって生まれた憎しみと不満を弾圧する。今日に至って、中国共産党は多くの人民を殺害した累々たる血生臭い罪悪について、既に善処するすべがない。故に、共産党は自分が生きている最後の最後まで、弾圧と独裁を実行し続ける。たとえ、一時に「殺人、名誉回復」などのモデルを採用して惑わすようなことがあっても、共産党の血を好む本質は一度も変わったことはない。もちろん、将来も変わることはない。
[1] 毛沢東が妻、江青へ宛てた手紙(1966)
[2] 孔子語録 (論語)
[3] レビ記19:18
[4] マルクス「共産党宣言」(1848年).
[5] 毛沢東、「人民民主主義独裁」(1949)
[6] 太平天国の乱(1851−1864)。この戦いは、清王朝の軍とキリスト教信者であった洪秀全率いる客家文化の神秘主義グループに共鳴した民衆との戦いであり、中国史上最も血生臭い事件のひとつである。この争いで、少なくとも3千万人の人々が亡くなったと云われている。
[7]香港の雑誌“争鳴”1996年10月号より抜粋
[8] 大躍進(1958−1960)−中国共産党は国内の工業、特に製鋼業を飛躍的に発展させるために率先してキャンペーンを行った。この運動が経済的な大打撃であったことは広く知られている。
[9] 1994年2月、「紅旗出版社」より出版。引用文は、訳者によって訳された。
[10] レイモンドJ、「内部の敵」Guild Books, Catholic Polls, Incorporated (1968)
[11] 鄭義(Zheng Yi)著:「血のように赤い記念碑」(Scarlet Memorial)(台北中国テレビ公司出版社、1993年は出版)。本書は英語版もあり、「血のように赤い記念碑—現代中国の人が人を食う物語(Scarlet Memorial:Tales of Cannibalism in Modern China)、T.P.Sym氏によって英語に翻訳、編集され、1998年コロラド州ボールダー市、ウエストビュープレス(Boulder、Colorado:Westview Press)が出版。
[12] 中国共産党が唱える「旧社会」とは中国共産党が国家を支配した年である1949年以前の中国のことを指す。
[13]「恐怖の拘束服」はジャケットの形をした拷問用の道具である。拘束された者は両腕をねじられて後ろに縛られ、その両腕を頭の上から胸の前まで引っ張る。この拷問を受けたものはその場で両腕に障害が残る。そして無理やり拘束服を着せられて腕から宙吊りにされる。その結果、両肩、両肘、両手首と背骨に亀裂が生じ、絶筆に尽くしがたい程の痛みの中で死んでいく。何人かの法輪功の学習者たちはこの拷問により死亡した。詳しくは:
Chinese: http://search.minghui.org/mh/articles/2004/9/30/85430.html
English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2004/9/10/52274.html
[14] 1930年、毛沢東は共産党支配化にある地域において更に自分の権力を集中させるため、党に対して江西省にいる何千人もの党員、紅軍戦士、無辜の民衆を殺すようにという命令を下した。詳しくは:
Chinese: http://kanzhongguo.com/news/articles/4/4/27/64064.html
[15] 王先根(Wang Xiangen)著「ベトナムを援助、米国に抵抗の実録」 (北京: International Cultural Publishing Company, 1990)
[16] 労改基金会2004年10月12日報告:
[17] マルクス(Marx)が社会階級を分析するために用いた三つの工具(生産用具;生産様式;生産関係)の一つ。生産関係(Relations of production)は生産用具を擁する者とない者との関係を指し、例えば地主と農民、あるいは資本家と労働者間の関係である。
[18] 「孟子」第3集 Penguin Classics series, D.C. Lau. 翻訳
[19] 範仲淹(989-1052) −有名な中国の教育者、文筆家、北宋の高官。この言葉は彼の有名な散文詩、“登岳陽楼記”からの引用。
[20] 顧炎武(Gu Yanwu)(1613−1682の年)著、清朝早期の著名な学者。
[21]「孟子」第7集Penguin Classics series, D.C. Lau.翻訳。
[22] 「三家村」は1960年代の3人の文化人、呉橳皦拓、寥沫沙のペンネームである。彼らは新編歴史劇“海瑞の罷官”の著者であり、毛沢東はこの劇を彼と彭徳懐の関係を風刺した政治劇だと考えた。
[23] 遇羅克は人権派であり文筆家。文化大革命の初期、中国でたくさんの人が殺害され、遇羅克は長編の論文「出身論」を発表し、人権が無視された血統論に対して猛烈な批判を展開し、人々の支持を得た。そのため、文革の執行部に逮捕され、1970年処刑された。
[24]1957年、北京大学マスメディア学部の学生林昭は「右翼」のレッテルを貼られた学生に同情し、正義を主張したため、長期的に監視された。その後「反革命集団を組織した」という罪名を押し付けられ、獄中で様々な残酷な拷問を受け、1968年密かに殺害され、遺体も消滅された。
[25] http://www.laojiao.org/64/article0211.html より引用。(中国語)
[26] 「宋美齢の廖承志への公開状」(1982年8月17日)から引用しました。出所:
http://www.blog.edu.cn/more.asp?name=fainter&id=16445 (中国語)
転載大紀元
【第一評】共産党とは一体何ものか
【第二評】中国共産党はどのようになり上がったのか
【第三評】中国共産党の暴政
【第四評】共産党は宇宙に反する
【第五評】法輪功への迫害における江沢民と中国共産党の相互利用
【第六評】中国共産党による民族文化の破壊
【第七評】中国共産党の殺人の歴史
【第八評】中国共産党の邪教的本質
【第九評】中国共産党の無頼の本性
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