六度の憲法改正 生涯を台湾の民主化に捧げた李登輝元総統 【動画】

【脱党支援センター2020年8月3日】

https://youtu.be/hTp6nR_FJlY

元中華民国総統李登輝氏が7月31日に死去しました。ポンペオ国務長官は30日に声明を発表し、李登輝氏の台湾民主化への貢献を高く評価しました。李登輝氏は12年の総統就任中、6度にわたって憲法改正に取り組み、台湾の民主化を完成させました。2005年、李登輝氏は記者会見で大紀元の社説『九評共産党』を推薦し、共産主義は人々を騙していることを強調し、『九評共産党』と中国共産党からの脱退を表明した中国本土の人々を高く評価しました。

中華民国元総統 李登輝氏(2012.01.13)
「私はもう年で、身体もよくない。いつ愛する台湾とお別れするかわからない。やれることは実に限られている。未来は皆さんの努力に頼るしかない」

2012年、当時90歳だった李登輝氏は、蔡英文氏の総統選参戦への支持を表明し、台湾への深い愛情を再度表明しました。

1988年に蒋経国前総統が死去すると、当時65歳だった李登輝氏が総統に就任し、初の台湾生まれの国家元首となりました。 在任中に6度の憲法改正と無血で静かな革命を推し進め、海外メディアからは「ミスター民主主義」と呼ばれていました。

中華民国元総統 李登輝氏(1991年)
「憲政体制の正常な発展こそ、民主主義政治が実現できる坦途だ。ゆえにわたし李登輝は最短期間で「反乱鎮定動員時期臨時条項(共産主義者反乱対策臨時措置法)」の終結を宣告できることを望んでいる」

1990年の「三月学生運動」のちょうど1年後、李登輝氏は学生の要求をのみ、国是会議を招集して「反乱鎮定動員時期臨時条項(動員戡乱時期臨時条款「」を廃止し、台湾の民主化を新たな段階へと導きました。 12年の在任中、李登輝氏の中国本土との両岸関係に関する主張も国際社会から注目を集めていました。

中華民国元総統 李登輝氏
「20世紀の中国は苦難の国で、まずは外患が絶えなかった。その後の50年は、イデオロギーの違いで、中国人が中国人を攻撃する悲劇を招いた」

1995年、李登輝氏が訪米し、母校であるコーネル大学で台湾の民主化経験に関する演説を行い、台湾における中華民国の位置付けを提起しました。中共はすぐに不満を示し、総統選を控えた1996年初めにミサイルを発射し、脅迫しました。それにもかかわらず、李登輝氏は54%の得票率で当選し、初の民撰総統となりました。

2000年に総統を退任した後も、李登輝氏は台湾での活動を積極的に行いました。日に日に活発になる両岸関係を目の当たりにし、中共が台湾を欺き脅迫しているのは不変の事実であることを度々警告してきました。

中華民国元総統 李登輝氏
「中共が助けてくれるなんて、信じるのか?中共政府の言葉に、真実は一つもない」

李登輝氏はよく海外メディアから、シンガポールの元首相の故・リー・クアンユー氏と比較されていました。これに対し李登輝氏は、「自分とリー・クアンユー氏は全く違う考えを持っていると信じている」と語ったことがあります。 ハーバード大学のサミュエル・ハンティントン教授は「李登輝が死んでも台湾の民主主義は残るが、リー・クアンユーが死ねばその制度は失われる」と評しました。

中華民国元総統 李登輝氏(2013.05.29)
「最後に(遺体を)焼いて(遺灰は)玉山の山頂に撒いてもらえれば、台湾とずっと一緒にいられる。簡単だ。深刻に考えなくていい」

李登輝氏は憲法の「反乱鎮定動員時期臨時条項」や万年国会を廃止し、6回の憲法改正を行い、台湾の静かな革命を完成させ、歴史の1ページに残しました。 李登輝氏は生前、台湾最高峰の玉山(ぎょくざん)に遺灰を撒いてもらえれば、台湾と永遠に一緒にいられると語っています。

転載新唐人

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