歴史レビュー進化論をでっちあげ、奇妙な病気にとりつかれたダーウィン

【脱党支援センター  文/宗家秀 作 美姫訳 乃木晃編集 2020年5月4日】

写真の濃い色の本は、チャールズ・ダーウィンの本「食虫植物」です。(Camden Library提供)

 進化論自体は隙だらけで、ダーウィンがそれを発表したときは突拍子もなく大胆でした。たとえば、彼は開花植物の起源を説明できず、「いやな謎」と呼んでいました。彼は「種の起源」で「目は自然選択によって形成されるという仮説は最もばかげて可笑しい」と認め、率直に言って「これまでのところ、私は目を考えるたびに震駭する」と述べました。

 28歳になる時、ダーウィンは種の進化に関する最初のメモを書き始めましたが、その2年後、彼は奇妙な病気に苦しみ、頭痛、不眠症等の不可解な恐怖と不安に悩まされました。こんな病理と病原が検出されない奇妙な病気は、彼が亡くなるまでの四十年余り付き纏い、世の著名な医師でさえその病を治せませんでした。

 子供の頃、嘘をつき虚栄を張るのが大好きな彼、チャールズ・ロバート・ダーウィンは、1809年にイングランドのシュロップシャー州シュルーズベリーの農園で生まれました。彼の父、ロバート・ダーウィンはちょっとした評判がある地元の医者であり、彼の祖父、エラスムス・ダーウィンはイギリスの医学界の権威でした。そんな祖父の説く、生命は海から生まれ、内部進化の力を保持しているのだ。と言う祖父の信念は、当時のダーウィンの思想に大きな影響を与えました。

 ダーウィンは1歳の時、母親はしばしば彼を礼拝に連れて行き、地元の教会で洗礼を受け日常は厳しいお姉さんに躾られました。ダーウィンは普段、父親の図書館に通い植物を観察するのが好きでした。しかし、ダーウィンは幼い頃から他人からの注目を集めたいという強い願望を持っていたので、この種の心理は常に妹と寵愛を得ようとして競い合い、無意識のうちに嘘をつくようになりました。

 ダーウィンは自伝で「子供の頃、私は人を興奮させるために多くの嘘を念入りに捏造しました。たとえば、父の果樹から貴重な果物をたくさん盗み採り、それをやぶの中に隠し、必死に探し回り盗まれた一山の果実を見つけたと言うニュースを広めたりしました。」と追憶しました。

 ダーウィンはまた、ライデンという子供に「西洋桜草とオトメザクラに特定の色の液体をかけ、様々な色の西洋桜草とオトメザクラを作ることができる」と話しました。が、ダーウィンはそんな実験等行ったことが無なかつたので、それも勿論大きな嘘なのでした。

 子供の頃、ダーウィンは菜園から果物を盗むのが好きで、しばしば彼は屋根に登り棒を使って桃、アプリコット、リンゴ等を打ち落としました。時に彼は近隣の村の若者にその略奪品をプレゼントしました。その事を彼は非常に満足していました。が、しかしそれは村の若者たちが意図的にリンゴを手に入れるため、敢えて彼を賞賛していると言う事にダーウィンは、全く気がついていなかったのでした。

ダーウィン、7歳(公有領域)

 
 日々ぶらぶらして学業をおろそかにしていた。
 ダーウィンが8歳の時、彼の母親は病気で亡くなりました。そして9歳の時、父はダーウィンとお兄さんを地元の名門学校に送り、古典文化を勉強させました。ダーウィンは教室で寝るばかりで放課後、狩りと化学爆発の研究に夢中になって“瓦斯”というあだ名もつけられました 。父親はしぶしぶ彼をエディンバラ大学に送り、家業を引き継ぐ事を望んで医学を学ばせました。
 がしかしその結果、やはりダーウィンは再び父親を失望させ益田。彼は医学を嫌い、むしろ鳥類や海洋藻虫類などの無脊椎動物に興味を持ちました。ダーウィンは研究対象の初歩的観察と簡単な分析だけで、急進的な発言や学術的な意見を発表するのが好きでした。こうした彼の医学への嫌悪感は、最終的に彼が学位を取得する事を妨げました。

 ダーウィンの知性は平凡で人間的には怠け者でし。寄宿中、彼は月に一度しか入浴をしなかったので常に足の臭いがしていました。その臭いを隠すため毎日寮に戻ったら頭からつま先までキルトで全身を覆いました。しかしそれでも臭いがすると、この臭いは近くの農場の馬小屋からの臭いだと彼のルームメイトに嘘をついていました。

 父はダーウィンのこの様な素行を頭が痛むほど悩んでいました。そしてある日、遂に父親は我慢できず、「猟犬を飼い、ネズミを捕獲する事以外何もしない様では、将来自分自身を汚す事になるし、我が家の家柄も汚す事になる」と彼に癇癪を起しました。

 18歳の時、父ロバートはケンブリッジ大学キリスト学院で神学を学ぶようにダーウィンを送りました。ダーウィンは自費生であり、父親が授業料を支払いました。今回も、ダーウィンのパフォーマンスは以前とほぼ変わりなく、彼は「食いしん坊クラブ」に参加し、ワシ、サギ、フクロウ等のレシピを楽しむ若者のグループと親睦を深め意気投合しました。

 若いダーウィンは入校時何人かの勤勉な学生と、「すべての法律と慣習に従い、この大学を揺ぎ無く愛し、どんな条件下でもそれを守る」と誓いました。しかし、実際ダーウィンは食べる事以外、学ぶ事も無く遊び楽しみひたすら無駄な時間を過ごしました。それだけでなく、彼は直ぐに過激派によって組織された反キリスト教団体に参加し、彼等約50人の神学の大学生がキリスト教の信仰を脅かしました。

 杜撰すきだらけの進化論仮説
 1831年にケンブリッジ大学を卒業したダーウィンは、同年12月27日に科学視察のために世界をめぐる英国海軍の測量船のビーグル号に乗船する機会を得ました。当初、医師の父親と姉妹達は断固として反対しましたが、その後、ダーウィンの叔父の説得でしぶしぶ参加を認めました。5年にわたるビーグル号の航海で、ダーウィンは、またもや科学的証拠が全く無い型破りな進化論仮説の基礎を作り上げました。
 
 1837年7月、ダーウィンはロンドンで『種の起源』に関する最初のメモを整理しました。1838年、彼は偶然マルサスの『人口論』を読みました。マルサスは余剰人口は貧困、飢餓、戦争によってのみ解決できると信じていました。ダーウィンがその理論を読んで宝物を手に入れたかの様にそこから霊感を受け、生物界全てが、「天選を競う、適者生存」の原則主導の下で演化進化したと認識する様になりました。
 
 1859年の「種の起源」の出版は、西洋で大きな反響を引き起こし、神学者、哲学者、社会学者によって抵排されただけでなく、当時の自然主義者からも反対されました。人類が偶然機縁的自然選択から生まれたという見方は、科学的根拠が無いだけでなく、人間の道徳的な考え方と信念の基盤全体を破壊するもので、これは人間にとって非常に危険な思想です。

1859年版の《種の起源》タイトルページ(公有領域)

 
実際ダーウィン本人にとって、この一連の「自然選択の生物進化理論」の主張は戦々恐々大胆な事でした。自然科学への彼の関心と研究は疑う余地がなく、自然科学の分野へのマルサスの社会学的理論の強制的な導入に由来するいわゆる「自然科学」と「真実」は、科学の精神に対しては本当に皮肉な事です。後にこの進化論は、静かに出現した共産主義の唯物論によって利用され、叛神邪説を見事に詰め込む事により、おそらく悪魔が人類に災禍と変乱を起こす連動工程システムとして間違い無いだろうとされました。

 さて、進化論は科学的証拠によって証明されていますか?ダーウィンは生涯を通じて化石の証拠を探し続けていました。進化論の支持者も百年以上も探してきましたが、未だにに発見されておりません。
 非開花植物から開花植物へのミッシング・リンクは、ダーウィンによって「厄介なパズル」と呼ばれ、「これは理論全体を覆す事ができる最も重要な問題です」と書かれています。

 原始的な非開花植物は無性繁殖されます。開花植物は、雄花の葯から雌蘂の柱頭に花粉が到達する必要があり、これ等の変異はある時ある場所の一株の植物から始まり、これも昆虫或いは動物が花粉を運ばなければ、花も咲かないはずです。そしてダーウィン理論によると、これら昆虫や動物も進化していなければならないにも関わらず、未だに進化をしていないのです。

 進化を支える根源として現代のDNA理論を分析する事は更に馬鹿げています。通常、遺伝子変異は間違いであり、情報を正確にコピーするプロセスにおけるDNAの誤りであり、これ等は一体どこが進化なのですか?
 1996年、ペンシルバニア州リーハイ大学の生物化学教授である貝希は、「ダーウィンのブラックボックス」という本を出版しました。その本に「ダーウィンが進化論を提案した時、生物学は彼にとってブラックボックスの様なものでした。彼は分子レベルでの精密な組織は全く分からず、細胞は非常に単純で、無生物から容易に進化できると考えています」と指摘しました。
 ダーウィンは当時、また「複雑な臓器が無数の連続した小さな変化によって形成できない事が証明できれば、私の理論は絶対に失敗するだろう」と述べました。
 貝希は次の様に例をあげています。「実験で、人間の目の瞳孔はカメラのシャッターの様なものであり、太陽の下でも夜でも十分に光が眼球に入る事ができ、水晶体表面が自動で光の密度、色彩などを調整出来る事が証明されました。複雑なメカニズムは目の構造に精通している人々を驚かせています」「目の複雑な構造は、進化の変化によって少しづつ形成する事はできません。何故なら目の繊細な構造は目のどの一部分が欠けても、目の機能全体が失われるからです」。


 

ダーウィンが「毎回、目を考えるたびに衝撃を受ける」と言ったのも不思議ではありません。 実験では人間の目の瞳孔はカメラのシャッターの様なものであり、太陽の眩しい時でも夜間でも、十分な量の光を目に取り入れられる。レンズの表面が光濃度を自動的に変更し色彩も調整できる。(Shutterstock / The Epoch Times製図)

 キリスト教神学に反対し神を誹謗する
 進化論を考える前、ダーウィンはウィリアム・ペリーの「知能設計」の思想に大いに信服していました。ウィリアム・ペリーは、洗練された時計が聡明のデザイナーの手から生まれたように、宇宙のデザインも聡明な創造者がいると信じていました。

 しかし、ダーウィンが進化論の仮説を提唱した時、彼は「神の創世論」は信じられないと認識しました。彼は進化論の3年目に次のように書いています。「旧約聖書は、インディアンの聖典や野蛮人の宗教と同じくらい信頼できません。何故ならそこに記録された世界史は、顕然虚仮で巴別塔、標識に用いた虹なども含まれている。また、神を復讐心を持つ暴君として描写しています。」

 ダーウィンは益々原罪に不信感を抱いており、人間の苦しみを理解していません。何百万という下等動物が皆無限の時間で苦しんでいると信じ、神の慈悲は確実に有限であるから信じる事が出来ない。彼は全ては自然選択の結果であると認識しました。

 ダーウィンの進化論は、社会のあらゆる部門更には政界によってさえも反対されてきました。「種の起源」を書いている過程で、彼はまだ怪しい病気に取りつかれ子供も夭折しました。彼はより苦痛で理性的ではなかったです。彼は「自然選択」の誤論を彼自身の子供と考えていました。生物学家華莱士は進化論に同意しますが、人間の脳は進化できないと思うので、ダーウィンは彼を非難しました。「あなたと私の子供を完全に殺していない事を願っています(自然選択)」。

 晩年のダーウィンは、宗教に対する彼の態度について絶えず質問され、議論され最終的に「これは人間の知恵を超えた大きな問題です」、と彼は自分の信念を「不可知論」と分類しました。

似顔絵は、人間と類人猿が1870年代に共通の祖先を持っているという考えに対するキリスト教の反対を反映しています。(公有領域)


 

 子供夭折 怪病に付きまとわされる
 ダーウィンは1839年1月に従兄のエマと結婚しました。結婚後、6人の男の子、4人の娘、合計10人の子供がいました。悲しい事にこれ等の子供たちのどれも正常な状態ではありません。
 長男のウィリアム、4番目の息子のレナード、3番目の娘のヘンリエッタはすべて不妊症で、2番目の息子のジョージは神経質で、3番目の息子のフランシスは精神的うつ病に苦しんでおり、5番目の息子のレイラーズは常に病気で母親の世話が必要でした。4番目の娘、エリザベスは終身結婚しませんでした。長女のアニーは1841年に生まれ、10歳の時、猩紅熱で亡くなりました。次女のメアリーは1842年に生まれた直後に亡くなりました。6番目の息子チャーリーは1856年に生まれ、2歳で亡くなりました。
 ダーウィンの妻エマは敬虔なるクリスチャンです。種の起源を修正するように何度もダーウィンを説得しました。彼女は進化の危険性をよく知っていました。「神に対する信仰を失うと、それは全ての希望を失われます」。 彼女はまたダーウィンに神への信仰に戻るよう助言しましたが、ダーウィンはそんな振りをするか拒否をしました。
 何人もの子供が夭折したとき、エマはそれがダーウィンの進化論の報いである事を知っていて、とても苦しみました。晩年、ダーウィンは花粉伝播を研究し、彼の子供たちの死は近親結婚の結果であると結論付けました。
 この結論は非常に消極的で、当時のヨーロッパでは近親者同士の結婚は非常に一般的でしたが、これはダーウィンに起こった事例を説明する事が難しく怪病はもっと奇怪でした。

ダーウィンの妻エマ(公有領域)


 
 種の起源に関するノートを書き始めてからの3年目に、ダーウィンは未知の病気でしばしば吐き気、嘔吐、不安、恐怖、夜間の不眠症を伴う頭痛、胃の痛み、口の潰瘍などを患い通常1日に2、3時間しか働けませんでした。普通人のような健康な生活は一日も過ごせませんでした。
 これらの痛みの中で彼は無力であり、何度も死を予告しました。奇妙な事に医者が来たとき、全ての症状は消えていました。医者は何が原因であるかを見つける事ができませんでした。ダーウィンの父親は地元の有名な医者でしたが、息子の病気をどう直すか分かりませんでした。四十数年、二十数人の有名な医者が彼の奇妙な病気治療を試しましたが成功しませんでした。
 人々は心の病ではと示唆されているが、明らかになっていません。一部の医師は、航海中に何らかの野生生物に噛まれたと推測しましたが、後で否定しました。何故ならこの症状は数十年の精神疾患を引き起こすについては可能性が低いためです。それにまた、同じく航海した船員は何故同じ症状が出ないのでしょうか?
 ダーウィンは、しばしば冷水または冷たく湿ったキルトに長時間浸り、病気になったときの心の恐怖を和らげ、結果を得るため、時々自虐的な行為をしました。酢に漬けた銅絲或いは鋅絲を体に巻いて自分の精神的な痛みを和らげました。
 しかし、全ての手段と医療方法は役に立ちませんでした。ダーウィンの症状は古代中国の伝統的な本に書かれているものに良く似ており、人々が悪い事をすると通常の医学的方法では触れられないネガティブな霊能力者を呼んだりします。1882年のある日、ダーウィンは動悸と死がやってくると再び強く感じました。そして今回は本当に死神が来ました

ダーウィン62歳、1871年に撮影(公有領域)


 
 共産主義理論の共犯者になった進化論


 大紀元の記事「悪魔が私たちの世界を支配している」に掲示してあります。「ダーウィンの進化論は元々根拠の無い仮説でした。その議論の無謀さと大まかな不合理な推論は誰が見ても明らかです。悪魔は人と神との連結を切断し神から作られた人々を動物に貶し、更に自尊心を奪い進化論の邪説を広めます」。
 進化論の発表後、多くの非難にもかかわらずイギリスの博物学者ハクスリーとスペンサーはこの理論に同意しました。彼らはそれを社会学にも導入し、いわゆる「適者生存」社会ダーウィニズムをでっち上げました。
 ダーウィンの「種の起源」が出版後すぐにマルクスの鑑賞を得ました。マルクスは「この本は歴史における階級闘争の自然な科学的根拠として使用できる」と少しも飾らず言いました。
 共産主義は、無神論と闘争の哲学の核心思想と社会的ダーウィニストの適者生存の理論と結合する事によって、世界を欺いて伝統を破壊すると言う予期せぬ効果を達成できたと言えるでしょう。
 共産党の暴力的な革命は反乱を助長し、ダーウィンの進化論は自然科学の観点からこのテイストに的確に応えます。共産党は中国で誕生後、神仏道統と伝統文化を破壊してきました。当時の西洋学習の背景の下で、生物学的進化の理論はシームレスな反応をもたらしました。李卜克内西はダーウィンとマルクスを「革命的レバレッジの異なる支点」に例えました。
 1912年、孫中山は次の様に指摘しました。「20世紀より前に、ヨーロッパ諸国は生存と競争の新しい説を発明しました・・・この教義は、ヨーロッパ文明の進化の初期に確実に適用されました。でも今見ると、ほとんど一種野蛮な学問である・・・.誠意と権力は天演の進化と一致していますが、公理では天賦と良知を滅びる事は難しい。
 19世紀後半から20世紀にかけて進化論はもう一つの幽霊の如くに、世界の科学、知的、教育界を一掃し人々は思索を加えないでそれを生物学的及び人間の社会的発展の厳格な原理と権威主義の理論と考えました。
 西洋では、ダーウィンの進化論は根拠が無い証明できでない自明的な科学観点と「正しい政治」とされ、中国共産党の支配下にある中国では、ダーウィンの進化論は揺るぎ無い「科学的真理」であるだけでなく、政治的スタンスの潜在的な界限でもあります。
 進化論を信じないと中国共産党では異分子又は敵対勢力と見なされる可能性があります。対応する「戦う狼」のメンタリティと「弱肉強食」「王になり敵を打ち負かす」「
落後すれば叩かれる」等の極端なナショナリストの感情、及び極端なナショナリストの感情は全て人気があります。進化論の偽科学思想の蠱惑無しではここまで達する事はできないだろう。

一部の学者は現代科学を再検討し始めました。(大紀元合成)

 進化論が機能しなくなった


 現在の西洋社会では、ダーウィンの進化論は益々疑問視され批判されています。1981年、大英自然歴史博物館のダーウィン展示会のパンフレットには「自然選択の進化論的概念は厳密に非科学的である」と明記されています。
 2001年、約100人の科学者が「ダーウィニスト進化の科学的質問」宣言に署名しました。同じ年に、シアトルディスカバリーセンターの科学文化センターは、博士号を持つ500人の科学者が共同でダーウィンの進化論に疑問を呈する声明に署名したと述べました。 そのなかにはアメリカ国家科学院とロシア科学院で声望が高いメンバーもいます。

 2019年、ダーウィンの210歳の誕生日に1,000人以上の科学者がダーウィンの進化論に公然と疑問を投げかけました。人々は根拠のない仮説を子どもたちに真実として浸透させる事に更に反対しています。
 科学ジャーナリストのミルトンは、彼はかつて進化論の不動の支持者であり、ダーウィンの進化論を支持する熱意を持って多くの事例を集めたが、最終的に彼は失望し次第に幻想が一つ一つ打ち砕けてしまいました。人々がそれを口に出すか否かに関わらず、事実は新しい衣装を身にまとう皇帝とオランウータンのそれとは、果たして同様なのでありましょうか。
 ジェイ・グールドも進化の確固たる支持者でしたが、彼は次の様に指摘しました。「すべての古生物学者は、移行形態の化石の証拠が非常に少なく、主要な民族グループの間で移行形態が極端に不足している事を皆は知っています 」
 人々は進化論の移行化石の支えが足りない事を「ミッシング・リンク」と呼びます。1967年、人類学者ルイ・リキは「ミッシング・リンクは一環ではなく、無数のミッシング・リンクが欠乏しております 」と明確に指摘しました。
そして、多くの科学者がこのように結論を出しました。ミルトンは次の様に述べています。
「結果は確実であり、進化論は既に役に立たない無用の長物です」。
参照資料:
『ダーウィンの回顧録』
『ダーウィンの日記』
邁克尓・貝希:『ダーウィンのブラックボックス』
デイヴィッド・ルイス:『進化論VS創造論』
ジャン・フィリップ:『審判ダーウィン』
ラッセル・グリッグ:『ダーウィンは公に発表、放棄進化論?』

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