
【関連記事】
6カ月に七十余りの城を攻め落とし、諸葛孔明でも憧れた名将は誰?(一)
恵王が反間の計にかかり、あと一息で成功するところで失敗
連合軍が速やかに斉を攻め落とし、燕軍を斉の各地に配置し、国民を安心させることによって民心を得られ、斉を征服できると楽毅は考えていた。しかし斉の将軍・田単は反間の計を用い、「楽毅は6ヶ月で七十余りの城を落とせたが、なぜ3年かけても即墨と莒を落とせないのか? その理由は楽毅が自ら斉王になろうと企んでいるからだ」と、流言を流した。それを聞いた昭王は「楽毅の功績は天地を覆っている。王に封じても構わない」と言い、使者を送って楽毅を斉王に封じようとした。楽毅は昭王の絶大な信頼と厚意に感激しながら、王の冊封を死んでも受けられならいと言い、昭王との約束を守り、「昌国君」の冊封だけを受け入れたのだった。
その最中に昭王が崩御し、死後に太子の恵王が即位した。斉の将軍・田単は、恵王の疑り深い性格と、太子時代に楽毅と不仲だった時期があったことを知っており、再び反間の計を用いた。恵王は流言を信じ、直ちに楽毅を解任して帰還させ、騎劫を将軍として送り、楽毅の代わりに兵符を引き継がせた。一方、田単は即墨で反攻に転じ、騎劫の率いる燕軍を撃破し、奪われていた七十余りの城を全て奪還し、楽毅の苦労は泡のように消えてしまった。
陥れられても論争しない大将の模範
楽毅は言い争うことはなく、黙々と趙に戻った。恵王は楽毅が自分を恨み、趙軍を率いて燕に攻めてくることを恐れた。恵王は楽毅に手紙を送り、「父の昭王から受けた恩に対して、あなたはどのように報いるつもりか?」と問うた。この楽毅の恵王への返答は、後世に名文と謳われる「燕の恵王への報書」である。
楽毅は昔のことを振り返り、「先王から絶大な恩を受けていましたが、燕に帰れない理由は、先王と恵王の名誉を守るためです」と穏やかに語り、伍子胥の物語を例に挙げた。自分はおろかしい忠義だてはせず、不実の言いがかりで殺されたくないと表明し、寛容で善良な君王であってほしいと恵王に忠言した。
楽毅は趙にいる間、恵王から受けた仕打ちにこだわらず、生涯にわたって趙と燕の友好に尽力した。かの諸葛孔明も出世前の南陽にいる時、楽毅に憧れを抱いており、楽毅のようになりたいと思っていたそうだ。
(おわり)
(原文・藍 廷綱 / 翻訳・清水 小桐)※看中国から転載
アメリカ (140) ウクライナ (233) コロナウィルス (158) スパイ活動 (166) トランプ (338) バイデン (344) バイデン政権 (161) ポンペオ (173) ロシア (340) ワクチン (318) 上海 (209) 中共 (2948) 中共ウイルス (570) 中共当局 (332) 中共軍 (188) 中国 (2071) 中国企業 (150) 中国共産党 (1319) 中国崩壊 (149) 中国当局 (147) 中国経済 (285) 中国製 (155) 人権侵害 (333) 伝統文化 (236) 北京 (239) 北京五輪 (180) 南シナ海 (151) 台湾 (841) 台湾海峡 (148) 封鎖 (154) 抗議デモ (147) 新型コロナウイルス (196) 新疆ウイグル人 (208) 日本 (540) 法輪功 (349) 法輪功学習者 (200) 洪水 (202) 災害 (196) 疫病 (174) 米国 (951) 習近平 (932) 臓器狩り (257) 軍事 (220) 迫害 (217) 香港 (482)