【党文化の解体】第4章(11)

【大紀元日本4月22日】

3 天地をも恐れず、嘘を偽り汚い言葉、下品な挙動

 中国は昔「礼節の国」と言われていた。天を敬服し、神を信じ、善悪には報いがあると言うのは中国人が何千年に渡り守ってきた伝統である。明確な信仰をもたない人でさえ、「お天道様」の存在を信じている。伝統的文化においては、中国人は神仏、聖賢を尊敬し、その教えから自己の人格を高めるために努力する。人々の天地人に対する態度は尊敬と謙虚であり、社会全体は礼儀をもって規範されていた。

 しかし、共産党が鼓吹するのは「天を恐れず、地をも恐れず」である。何も恐れない「人間」に改造されれば、中共は政権奪取、大衆運動をやるときに使い勝手になる。もし人が礼儀をもって人に対し、ものを惜しんで大切にし、天地神明を敬服するならば、このような人はきっと「党の話は絶対だ」と思わないであろう。そのため、党文化の作り上げる過程においては、中共により洗脳された無神論により、中国人はもはや華夏先祖の天地神明に対する敬服と生命に対する究極の慈愛の心から遠隔された。その闘争の思想は、「壁立千仞、無欲則剛、海納百川、有容乃大(山高きこと千仞、欲無ければ則ち剛なり、海百川を納る、容るる有りて乃ち大なり)」という中国の古訓を信じなければ、「己所不欲、勿施於人(己の欲せざる所、人に施す勿かれ)」という教えも信じない。その唯物論主義は今の中国人の先祖が残した上下に向かって探求する心、人格上の昇華の「道」を完全に捨てさせられ、東洋の「慈悲たる心」、西洋の「博愛たる心」を「人民の精神を麻痺する麻薬」「虚偽たる腰巻き」と見なした。人々の言葉の表現の中に、「人若犯我、我必犯人(人に犯されれば必ず人に犯し返し)」のような気勢鋭く人に迫る表現もあれば、「天と戦い、地と戦い」の狂気、挙動は下品で、嘘偽りや下品な言葉を言い、これを恥と思わず却って光栄だと信じ込んでいる。

 1)口を開けば嘘偽り

 恐らく世界上のどの国でも、嘘を言う人がいる。しかし、多くの国では、社会全体のシステムとして、一つの信頼関係はそのシステムの基礎となっている。信用があると言うのは、長期的に立脚できる社会資本である。これに対して、中共の統制の下では、嘘偽りは所謂「立国の元」である。社会全体として、嘘偽りがその大黒柱であり、嘘を言うことが社会に生存する基本的技能となっている。

 中共の歴史そのものも嘘の歴史であり、嘘は中共による統制を維持させるための礎石となる。公・私の場面とも、対内的・対外的にも、物事の大・小にしても、嘘は随所に満ちている。政治闘争の中から、民衆は中共から嘘を言う「技」を学んだ。党の要求に複合させるため、自分が闘争される対象にならないために、党と共に嘘を言わざるを得ない。党と一緒に「イギリスを超え、アメリカを追い越し」「1畝(中国の1畝=6.667アール)に万斤(1斤=500グラム)を産出する」「情勢はとても素晴らしい」などと言う。かつて中国大陸ではこのような通俗詩があった。「村は郷を騙し、郷は県を騙し、下級は上級を騙し、省長は中央を騙し、一級一級上へ向かって騙し、国務院まで騙す」という。このように、人は既にこれを慣れてしまった。まるで嘘を言うのは至極当然のことで、世界全体と社会全体はこのように運営しているかのように思っている。

 映画「携帯電話」は、口を開けば嘘を言う社会的現象の一側面を反映した映画である。不倫をしたため、用心深く嘘を作って、他人を騙さなければならない。家庭では、嘘をつき、嘘を見破る戦場である。これだけでなく、映画のシーンでは、一般の生活の中でよくみられる嘘をも数多く取入れられていた。社会全体として「携帯恐慌症候群」となり、これは別段携帯そのものを恐れているわけではなく、携帯は嘘を暴露できるからである。当該映画の監督は次のような発言がある。「多くの場合、嘘は我々の生活を支えている」。

 伝統的価値観の中で、道家では真人になることを重んじ、仏家では出家して人を欺かないことを重んじ、儒家では信用のあることを重んじている。皆嘘を言うことに反対している。孔子は「仁・義・礼・智・信」を常に守るべき五つの規範としている。そのうち、人と人の間の信頼関係は人間にとって最も重要な美徳の一つであると言う。これも孔子が「人而無信、不知其可(人にして信なくんば、其の可なることを知らざるなり)」を言う所以であろう。すなわち、人に信用がなければ、何ができるのであろうかということである。

 国家を治める道理も同じではないであろうか。孔子の弟子である貢曽氏は先生に国家を収める方法を教えて貰おうとしたとき、孔子は次のように言った。「その一、大衆に十分な衣食を満足させる。その二、国家に強大な軍隊を持たせる。その三、臣民の信任を獲得する」。貢曽はまた問う。「もしやむを得ず三つの内一つを省かなければならないというならば、どれを省けばよいだろうか」。孔子は次のように言った。「軍隊を省けばよい」。貢曽はさらに問う。「さらにもう一つ省くと言ったら」。孔子は次のように言った。「十分な衣食を省く。仮に十分な衣食がなくても、必ず信用を守るべきだ、そうでなければ、国が滅びるのは時間の問題だ」。

 唯物論が強調するのは物質が元であるということである。人々が物事を考えるときは、皆物質的利益から出発するのである。伝統的価値観が批判され否定された後、中国人は嘘偽りに対して如何なるはばかることもなければ、道徳から来る拘束もない。党文化体系は全体的に嘘偽りを言うことを鼓吹するに加え、人々は嘘偽りを言って何らの罪悪感をも感じない。嘘偽りが、何の理由もない本能と化している。我が身にとって有利でさえであれば、理由もなく、天地を恐れず、嘘偽りを用いて自己の利益を獲得することが普遍的現象となり、口を開けば嘘偽りだけでなく、その次にどうしたら自分の嘘がバレないように次の嘘偽りを考えるほどだ。

 一部の人は、嘘偽りを言い、信用を重んじないことを西側「資産階級」の特有の、利益を求めるための市場の本性であると帰結する。しかし、市場経済は西側先進国において何百年の歴史を持っている。これらの国は市場経済を実施したため嘘偽りが満ちる社会になったのではなく、その逆で西側諸国は信用を十分に重んじ、信頼できるというのは最も欠かせない個人の品位と重要な財産である。西側においては、信用は経済交流の中で最も基本的な原則であり、企業が追求する目標である。利益と信用の間に衝突があった場合、人々は信用を選ぶのである。なぜならば信用だけが継続的な利益をもたらすほかにないからである。一時の欺瞞は、短期的な収益が得られるかもしれないが、最終的には企業の持続的発展の妨げとなる。信用を重んじないなら、西側国家の中では、時間が経てば、寸歩も進み難いものである。

 党文化が人に嘘偽りを言わせるには、表現上において二つの系統がある。二つの系統とは、すなわちテーブルの上か、テーブルの下かということだ。「徳を持って国を治めることを着実にし……、汚職反対の闘争を深く展開する(貴州省委書記劉方仁氏、収賂660万元超、無期懲役)」、「私の最大の願いは、向こう五年以内に、十分な衣食をまだ享受していない160万人の貧困問題を解決することだ(雲南省省長李嘉廷氏、収賂1,800万元超、死刑猶予)」、「広西には未だに700万人が貧困状況にあることを思うと、私も寝苦しいところにある(全国人民代表大会常務委員会副委員長成克杰氏、収賂2,000万元超、死刑)」、「腐敗を反対し廉潔を提唱することは一刻も緩んではいけない、終始冷静で、鮮明で、堅実な態度で」(上海市委書記、政治局委員陳良宇、数十億元に及ぶ社会保険金案件に関連し、停職調査中)」……。同様に、一般大衆も二つの顔を持ち、二つの言語体系を持っている。一つは政治態度の表明や政治学習の体験を書くときに使う冷ややかな政治的な言葉、もう一つは通常の生活の中で使う上記と異なる比較的人間味のある言語体系だ。

 人々が口を開けば嘘を言うのは、中共の政治的環境に適応するためだけでなく、既に人々の考え方の習慣となっている。嘘偽りは社会の信用危機となり、一般大衆は最後に社会全体の道徳的な堕落によりもたらされた悪い結果を飲まざるを得ないこととなる。全面的腐敗になり、全面的偽物を造る社会においては、皆が「法は衆を責めず」と言う。中共によってもたらしたこの手の付けられないほどの乱脈な境地を如何に収拾するかは誰も知らない。

 (続く)

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