【党文化の解体】第4章(3)

【大紀元日本2月8日】

1.悪党の思想と思考回路、悪党組織特有の言語
 3)朝令暮改式の党の考え方

 一つの風刺的な現象として、もし中共の歴史を個々の時代に分けると、中国人民は総じて現在の時点に立って党の政策を擁護し、過去の時間における多くの出来事を嘲笑し、その時代は本当に荒唐無稽であったと思っている。

 もし時間という座標を過去へ移してみると、今日が昨日を嘲笑するということは、悪党の思想をもって物事を考える人であり、昨日という時間の座標に立ってみれば、その時代にあった一切の事情がまことに正常であり、当時の党の政策を相変わらず擁護し、場合によってはそこでさらに一昨日の行動を嘲笑うのかもしれない。

 今日共産党による法輪功の迫害を認めている中国人は、30年前にまで遡り当時の共産党による文化大革命もまた同様に認め、さらにその前の大躍進運動も正確で賢明な選択であると思ってしまうのである。

 今時「どれぐらい大胆であれば、土地にはどれぐらいの産がある」と言ったら、皆はあの時代の荒唐無稽さを嘲笑うが、実は今日の中国人民は同様にこの種のロジックで物事を考えており、ただ表現形式だけが異なり、自分自身で気付いていないだけである。

 農業発展を数年に渡り成し遂げた後、1958年8月27日付けの「人民日報」は、「どれぐらい大胆であれば、土地にはどれぐらいの産がある」と題する文章を掲載したが、この文章は中共中央弁公庁が山東省寿張県に派遣した調査員が調査後に記した報告である。

 文章は1畝(中国の1畝=6.667アール)に万斤(1斤=500グラム)を産出するのは、「ちっとも不思議な話でない」と説明するため、次のように生き生きとして描写している。

 水や肥を充足させ、密に作付して、よく耕しさえすれば、「1畝で万斤を産出するのも夢ではない」というものだ。

 さらに御用科学者は、植物が太陽光エネルギーを利用している根拠を持ち出し、1畝で5.85万斤の産出ができることを論証したほどである。

 今日になってこれらの言動を振り返ってみると、不思議で仕方がない。

 今日、中共の下手な所謂改革は、ある程度経済を発展させた。

 そこで中共の宣伝と洗脳の下で、中国人民は中国の未来について右肩上がりに推測する思考方式をするようになった。即ち、現在は玩具を製造し輸出するが、将来は飛行機を製造し輸出する。現在は貧富の差があるかもしれないが、将来は共に富裕になる。現在は腐敗が存在し、社会不公平や教育・医療福祉などの各種の問題があるが、将来は必ず全部解決できる。現在は環境が汚染されているが、将来は自然と改善される。現在はエネルギーが不足しているが、将来は必ず充足される。現在は集団的暴動事件が相次ぎ、まるで爆発寸前の火山の如きであるが、将来はきっと「調和社会」になる。現在は中国人民の道徳水準が日増しに低下しているが、将来は必ず高尚な人になる。現在は経済の発展であるが、将来は必ず民主的で自由な制度的発展ができる……「21世紀は中国の世紀である」、「中国は本世紀中に世界を制覇する覇権国となる」、これらのことの本質は、新時代における「どれぐらい大胆であれば、土地にはどれぐらいの産がある」の復刻版である。

 その年代、「どれぐらい大胆であれば、土地にはどれぐらいの産がある」の政治的標語は、「共産風」、「誇大風」、「無暗な指揮」をもたらし、大躍進を大後退と変じ、人民公社を人民空社へと変じた。

 今日のこの種の思想的危害は、当初と比べても少しも遜色がなく、その逆にさらに隠蔽された形で行われているので、中国人民は察知し難く、さらに重要なことに当初の思想が注入されたものであるのに対して、今日の中国人民のこの考え方は自らの「思考」により出来上がったものであり、その危害は更に深刻なのである。

 実は、「どれぐらい大胆であれば、土地にはどれぐらいの産がある」という表現自体は、非常に「唯心主義的」であり、ただ一種の気魄や決心を表しているに過ぎない。

 しかし、一旦普通の哲学的内含に党文化的要素を注入してしまうと、極めて壊滅的になってしまうのである。

 極端的唯物主義の観点からすれば、この種の表現はもはや一種の決心を表しているのではなく、実在の物件として実現しなくてはならなくなり、要はただ畝当りの産出指標、次々に誇張された指標、畝当りに万斤を産出する衛星県(農業生産における衛星都市)のみとなった。

 神の信仰のない共産党が追求するものは、「日も月も変え、新天地を作り上げる」という惧れを知らない大それた精神であり、条件が整えば前進し、条件が整わなければ条件を作り上げてでも前進する、一種の漠然たるものが中国人民の頭を席捲している。

 党文化が人間性をねじ曲げている一端が窺える。

 昔の「走って共産主義社会へ入る」の政治的標語は、畝当りに万斤を産出する、畝当りに十万斤を産出するといった荒唐無稽の行動を煽動したが、中国人民に既に客観的な法則と現実として顧みられなくなっている。しかし今日の「全面的勃興(全地球規模での台頭)」は、依然として中国人民はいまの中国が直面する危機を無視し、盲目的に中共を追随させようと煽動している。

 二十数年間に渡る稚拙な改革は、中国に巨大な危機をもたらしたが、中国人民は中共を監督せず、中共を批判せず、中共を省みず、中共を解体せず、何も行動もしないだけでなく、他人の行動に反対し、盲目的に一切の期待をこの危機をもたらした中共自身に寄託し、中共が問題解決の願望をもつことを望み、問題解決の能力があることを望み、真剣に21世紀における「どれぐらい大胆であれば、土地にはどれぐらいの産がある」を繰り返して演繹している。「中国人民の期待があるほど、中共にも希望がある」

4)中共に期待するという矛盾

 中共の歴史上における幾つかの重大な政策調整は、すべて党内外から来た巨大な圧力によるもので、「党が滅びる」危機を感じて初めて所謂改革を始めるものである。

 言い換えれば、中共に圧力がなければ、中共には改良ができないのである。

 中共に対して期待をもつだけで、中共の歴史を反省せず、中共の現行の悪行を暴露せず、そして中共を放任し、中共を追随し、中共の悪行を看過していては、中共は自らを改良しないのである。

 そうすると、期待は絶望同様となる。

 中国人民の盲目の「期待」、あるいは所謂「中共に三十年の時間を与えよう」という幻想の中で、社会危機はすでに中国を何回も破壊してしまったのかもしれない。

 さらに重要なのは、「改良」は今日の中共にとっては、もはや過分にすぎることである。なぜならば、中共が今まで積み上げた原罪からすれば、自らの改良は根本から望んでいないし、やる勇気もないし、できもしないからである。

 統制地位の維持は、中共の集団的利益と個人的利益のすべてを確保するための最低線となっている。中国警察のホームページには、「党の執政地位を維持する」と目を引くスローガンがあり、このように公然と警察を党の下僕としている。

 このようにして見てみると、中共は断固として「良心には従わず」、それに加え中国人民が盲目的に期待しているため、中共が歴史的な潮流に順応しないことにさらに拍車を掛けている。

 明らかに、今日の中共はすでに中国の問題を理性的に検討し解決する作業の根本的な障害となっている。中共を解体し、中国人一般が後顧の憂いのないように一切の理性と分別をもって自由に国家の発展方向や前途を討論して初めて、真の民族の希望が現れるものである。

 以下、我々は幾つかの典型的な例を挙げながら、今日の中国人民が如何に悪党の思想と悪党組織特有の言語をもって物事を考えているのかを見てみたい。

 現在の中国人民の共産党に対する最大の困惑の元は、改革開放がここ数十年に中国にもたらした巨大な変化である。この種の衝撃の下では、中国人民は如何に共産党を認識すべきなのか、共産党は変わったのか変わらないのか、希望があるのかないのか、大変に困惑している。

(続く)

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