【党文化の解体】第2章(15)「調和と共存に回帰する道」

毛澤東「権力は銃口から生まれる」
(イラスト=大紀元)

3-3)調和と共存に回帰する道

 2005年、「狼文化」が全国を風靡した。狼文化ブームで出版された『狼魂』の中に次のような一節がある。「オオカミのやりかたをまねなければ駄目なのか?だめだ。どうして?なぜならば、食うか食われるかの生存競争の中で、勝てば官軍、負ければ賊軍という厳しい社会での戦いにおいて、もし心に善があって、競争相手に手心でも加えてしまえば、相手に容赦なく潰されてしまう」。これは党文化の闘争思想の真髄をよく言い得ている。

 上の考え方と対比できるあるエピソードを紹介しよう。アメリカの大統領であったリンカーンは、政敵に対して友好的な態度を取ったため、ある幹部の不満を買った。彼は、そんな人々と友好的に付き合ってはいけない、彼らを消滅させなければならない、とリンカーンを批判した。すると、リンカーンは「彼らが私の友人に転じたら、敵を消滅したことになるのではないのか」と穏やかに言った。

 中国に、「すべての川の水を受け入れる海のように、器が大きくなければならない」ということわざがある。中華の歴史上で最強だった唐の時代は、思想、文化、国力、国土などの各方面で最高潮に達した。これは、大唐文化が一切を包容するほどに度量が大きかったからである。

 唐朝の初期、突厥(チュルク)に長い間北方を侵され、唐の高祖は国家安定のために突厥の臣下とならなければならなかった。しかし、唐の太宗は、突厥を打ち破っても、彼らを殺して父親の恥辱を洗うということはせず、とても広い包容力でかつて唐の敵だった突厥の将軍を100人以上任用して、五品以上の将軍と中朗将に任命した。それは朝廷武官の約半分を占めた。

 同時に唐朝はまた投降した突厥の人たちが中原に移って来て暮らすことを認めた。このような措置は、各少数民族たちの深い信任を得て、西北地域の各民族のリーダーたちが共同で唐の太宗に「天可汗」の尊号を受けるよう要請した。(「天可汗」:北方遊牧民族の君主である「可汗」より更に上位の君主の意味)

 歴史上、吐蕃(現在のチベット族)は、かつてとても荒々しく好戦的な遊牧民族で、中原と何度も紛争を起こしていた。しかし唐朝は幾度となく吐蕃を破った後、かえって文成皇女を送って和親を結んだ。文成皇女は、吐蕃に農業と仏教を伝え、その後数十年間は吐蕃と唐は睦まじく共存することができた。これは文化と教育の成果であると言わざるを得ない。

 つまり、言うまでもなく、武力による弾圧に走ると、恨みが募り、周辺地域は相変らず不安定で、戦争がまた起こってしまう。ところが、唐朝は、突厥に寛容政策をとり、回紇(ウィグル族の祖先)、旺歪族、南詔などの種族の領袖には冊封(さくほう)政策、吐蕃には和親政策をとることによって人心を得るようになり、瞬く間に周辺の国々が従い、多くの国が朝貢をしに来た。遠くはペルシャ、昭武九姓国(唐の時期に西南に位置した9ヶ国)、于闐(うてん)国などが皆、自ら望んで唐に服属した。

 文化面でも、唐朝は道を尊重し、仏を礼拝し、儒教を崇尚し、「三教並立」の政策を実施した。このような開放的で自由な思想環境こそが、唐代の雄大壮厳な文化的特性を作ったのである。

閻立本・画「歩輦図」の模写。右は「歩輦」(一種のかご)に乗った唐太宗、左は和親のための皇女を出迎えに来た吐蕃の使者
(イラスト=大紀元)

中華民族はこれまでずっと「和をもって尊しとなす」を重んじ、「中庸の道」を崇尚してきた。その先祖たちは、天下を教化し、即ち「天下を統一する」という神聖な歴史的使命を自らに付与してきた。根本的に言えば、天下統一の理想を実現するには、武力に頼るのではなく、文治によるべきであり、覇道ではなく王道を歩むことである。これがまさに、いわゆる「遠くある人が服さなければ、文徳をもって来させる」というものだ。

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