【党文化の解体】第2章(3) 「知識人を批判する」

知識人を改造する(イラスト=大紀元)

1-1)-(2) 知識人を批判する

 『左伝』いわく、「最も上等なことは社会のために良い道徳基準を立てることであり、その次は国のために軍功を立て、さらにその次は後世のために優秀な文学作品を残すことである。時間が経っても廃れることがなく、これを不朽という」。中国の伝統文化は、知識人に大きな歴史の舞台を提供し、それらはきら星のごとく、人材が傑出していた

 そのため、知識人を改造することは、中共によって重要な一歩とみなされた。中国の伝統的社会は、「士、農、工、商」の四つの階層を重んじ、そのうち「士」とは知識人であった。「士大夫」階層とは道統の継承者であり、このため道徳の角度から言えば、彼らは統治者よりも発言権があった。

 中共は、知識人が正当な道徳観念を代表しているとは認めていないが、知識人を介して庶民の思想を改造する必要があった。そのため、政権を取った中共がまずしなければならなかったことが、知識人の思想改造であった。

1950年6月、毛沢東は中共の第七回三中全会で知識人について言及し、「彼らを用いると同時に、その教育と改造を行わなくてはならず、彼らに社会発展史、歴史唯物論等を学ばせなければならない」とした。

 毛のいわゆる教育と改造とは、中高・大学の教師に政治協商会議の三大文献と社会発展史と新民主主義を学習させるほか、1951年の秋から、大勢の知識人を「抗米援朝(アメリカに抵抗し、北朝鮮を支援する)」「土地改革」「反革命の鎮圧」に参加、参観させた。ここで知識人らは、血腥い政治運動を目の当たりにして共産党の残忍さを知ることとなり、多くの人たちが精神的に骨抜きとなってしまった。

 1952年1月、全国政治協商会議常務委員会は『各界の人々を思想改造する運動に関する決定』を作成し、思想改造された知識人を全国に向かわせてその思想を推し広め、あらゆる人の思想を改造した。

 清朝末に科挙が撤廃されて以来、知識人の多くが政党に付き従うようになった。これは苦しい過程であり、知識人が「自ら」思想転向を行う過程でもあった。

 ただ、この種の転向は中共から見れば十分だとはみなさなかった。なぜなら、知識人は民主と科学の大旗を掲げる必要があると思っていたが、その一方で、儒家の修身立命の学が依然として是非を判断する基準と考えられており、それはまさに中共が容認できないことであったからである。

 毛沢東は、1939年12月に発表した『中国革命と中国共産党』の中で、知識人を「小資産階級の範疇」であると書いた。あの階級闘争が盛んな年代であっては、このような「小資産階級」のレッテルを貼られた知識人は再起できなくなった。

 中共は宣伝機関を通じて労働者と農民を賛歌し、彼らの知識の乏しさを革命の原動力とみなし、「素朴な階級の恨み」に共産党の指導があれば、革命を勝利に導くことができると宣伝した。その一方で、知識人は映画のなかで、眼鏡をかけびくびくし、書物にかじりついて大衆をかえりみず、何をするにも主観的である等々と描かれた。

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