【第九評】中国共産党の無頼の本性

序文

    百年余りに亘って世の中を騒がせてきた共産主義運動が人類にもたらしたものは、戦争、貧困、血生臭さと専制だけであったが、ソ連と東欧の共産党の崩壊により、この世界に害を及ぼしたでたらめな芝居も前世紀末には終焉へと向かい、今では、庶民から党の総書記に至るまで、共産主義のたわごとを信じる人は誰一人いなくなった。

    「君権神授」でもなく「民主選挙」でもない共産党政権は、自らが生存の拠り所としていた信仰が完全に消えうせた今日、その執政の合法性もかつてない挑戦を受けることとなった。

    中国共産党(中共)は、歴史の潮流に従ってその表舞台から退くことを拒み、逆に数十年に亘る政治運動の中で蓄積してきた、邪悪の粋を集めた各種の無頼手段を振るうことにより、合法性を探り、起死回生を図るための狂気のごときあがきを始めた。

     改革にしろ開放にしろ、中共の目的は、ただ単に集団の利益と独裁政権を必死に維持することである中国のこの20年間の経済発展、つまり、中国人民が依然として厳しい束縛の中で辛労を重ねて獲得した果実は、中共に刀を捨てさせることができなかったばかりか、逆に執政の合法性の資本として奪い取られてしまい、その一貫した無頼行為をいっそう人々を惑わす欺瞞的なものにしてしまったのである。

    最も恐れるべきことに、中共は全力を傾けて民族の道徳的基盤を破壊し、全ての中国人を大なり小なり無頼の徒に変えて、共産党のために「時代とともに変化する」生存環境を確保しようと企んでいる。

    民族の長期に亘る太平と安定のために、そして中国が一日も早く共産党支配から脱却し、民族の栄光を取り戻すためにも、共産党はなぜ下劣な行為をするのかということ、ならびにその無頼の本質を明確に認識することがとりわけ重要となった。

一、 共産党の無頼の本性は全く変わっていない

(一) 共産党の改革なるものは誰のためなのか?

     歴史上、中共は、危機に遭遇するたびに改善しているように装い、人々に中共に対する幻想を引き起こさせてきた。しかし、これらの幻影は、一つの例外もなくことごとく水泡と帰していったのである。今日、目先の利ばかり求めて見せびらかす、中共方式の経済繁栄という偽りの姿の下で、人々は共産党に対してまたも幻想を産み出してしまっている。とは言え、共産党自身の利益と国家民族としての利益が根本的に相反するものである以上、この種の繁栄が長続きしないのは当たり前であり、それが約束した「改革」なるものは、中共の統治を守ろうとするだけのものであり、薬を煎じるための水は変えるが薬は変えないといった小手先の改革にすぎないのである。歪んだ発展の背後には、更に大きな社会的危機が潜んでいる。この危機が一旦暴発すれば、国家と民族はまた巨大な衝撃を受けることになるであろう。

    中共指導者は、世代交代につれて、天下を治めうるような器量を失い、天下を支配するための威信も失っていった。しかし、共産党は一つの体制として、合法性が危ぶまれる中、集団の利益を維持することが個人の利益を守るための根本的保障となってきているのである。このような利己的な本性を持ち、全く制約を受けない政党が、苦もなく順風満帆に発展するなどということは一方的な思い込みに過ぎない。

中共の『人民日報」でどう述べられているか見てみよう

     歴史的な弁証法は、中国共産党員に次のように教え込んだ。「変わるべきものは、変わらなければならず、変わらなければ衰える。変わるべきでないものは、変わってはならず、変わることは己の瓦解を意味する」。(2004年7月12日第1面)

では、変わるべきでないものとは、いったい何なのか。

    党の「一つの中心、二つの基本点」[1]という基本路線は、百年変わらず揺らぐことはない。(2004年7月12日第1面)

    人々は何が中心で何が基本点なのか分からないが、誰にでも分かることは、共産党の邪霊が、その集団の利益を守り、独裁専制を続けようとする決意を悔い改めようなどということは決してありえないということである。案の定、共産党は世界の至る所で崩れた。それが共産主義の末路なのである。しかし、亡び行くものは必ず必死にその滅亡に逆らおうとし、より破壊的となる。共産党と民主改良について話し合おうなどというのは、トラに向かって皮をよこせと頼むような無理な相談にほかならない。

(二)共産党がなくなったら中国はどうなるのか?

   共産党が衰退へと向かっている今、人々は思いがけなく、邪霊の憑き物のような中共が数十年にわたって、千変万化の無頼な手段によって人々の生活の様々な側面に共産党の邪悪な要素を注ぎ込んできたということに気付いた。

    かつて、少なからぬ人が、毛沢東の遺影の前で涙を流し、「毛沢東がいなくなったら中国はどうなるのか?」と繰り返し泣き叫んでいた。二十数年後の今日、共産党が「執政の合法性」を失った今、中共は新たなメディア宣伝によって、再び人々に、「共産党がなくなったら中国はどうなるのか?」という憂いを抱かせているのである。

    事実、中共は、あらゆる隙間に入り込むという統治方法によって、われわれの文化と思考方法、更には中共を判断する基準にまで深々と中共の烙印を押し、言い換えるならば中共そのものに変えたのである。過去が、中共の考えを人々の思想に注ぎ込む時期であったとすれば、今は正に、中共がそれを収穫する時期になったと言える。なぜなら、当時注ぎ込まれたものは、既に消化され人々の細胞となっており、人々は自ら進んで中共の論理によって思考し、中共の立場に立って物事の是非を判断するようになったからである。

    6月4日の天安門事件の虐殺について、「私が鄧小平だったらやはり戦車で鎮圧しただろう」と言う人がいる。法輪功への鎮圧について、「私が江沢民だったらやはり徹底的に鎮圧する」と言う人がいる。言論の自由の禁止について、「私が共産党だったら同じようにする」と言う人がいる。真理と良識は既に無く、共産党の論理しか残っていない。これこそ、中共の無頼としての最も悪辣な手段の一つなのである。人々の頭の中に中共のこういった毒素が残っているかぎり、中共は無頼としての生命を維持するために、そこからエネルギーを吸い取るのである。

    「共産党がなくなれば中国はどうなるのか?」という思考方法こそ、中共が夢にまで願ったものであり、人々にその論理に従って物事を考えさせているのである。

     中華民族には、中共の支配が始まる以前、既に五千年の文明の歴史があった。世界のいかなる社会といえども、王朝の滅亡によって発展の歩みが止まったという例はない。しかし、数十年の中共の統治によって、人々は判断力を失い、長期にわたるキャンペーン、党を母と思わせる教育、あらゆるところに及ぶ政治によって、中共が無ければ生活ができないと思い込まされているのである。

毛沢東がいなくなっても中国は倒れていない。共産党が無くなれば中国は倒れるであろうか。

(三)動乱の本当の源は誰であるのか?

   多くの人が、中共の無頼な行為を十分理解しそれに反感を持ち、共産主義の人を懲らしめ騙す手法を嫌悪している。しかし、人々は、中共の政治運動とそれによって引き起こされる動乱に恐れをなしており、中国が乱れることを恐れている。中共が一旦「動乱」の名目で脅すと、人々は中共の強権に対して何もできず、その統治を黙認することになってしまう。

    実際のところ、数百万の軍隊と武装警官を抱えている中共こそ、中国の動乱の真の源であって、一般民衆には動乱を起こす理由は無く、ましてや動乱を起こす資格も無い。潮流に逆らって動いている中共こそ、疑心暗鬼となって国家に動乱を持ち込んでいるのである。「安定が一切を圧倒する」、「一切の不安定要素は、その萌芽状態のうちに消滅させる」というのが、中共が人民を弾圧する理論的根拠になっている。誰が中国最大の不安定要素であるのか。それは専ら暴政を行っている中国共産党にほかならない。動乱を起こしている中共が、「動乱」を逆用して人々を脅しているのであり、これこそ無頼漢のやり方なのである。

二、 経済発展は中共の供え物となった

(一) 人々が苦労して培った成果を盗用

     中共が自認する「合法性」は、ここ20数年間の経済発展にある。実際、この経済発展は、中共が人民に対する束縛を少し緩めた中で、中国人民がコツコツと一つ一つ積み上げて来たものであり、中共とは何ら関わりがない。それにも拘らず、中共はその成果を自分の功労として宣伝し、人々に対してその恩に感謝するよう言う。まるで、中共がなければ、この成功は全てあり得なかったかのようである。誰もが知っている通り、共産党政権がない多くの国家では、とっくにもっとすばらしい状態になっているのである。

    オリンピックで金メダルを取った選手は、党に感謝することを求められ、党自身も自ら、見せかけの「スポーツ大国」を実現したのは党の英明なリーダーシップのお陰とした。中国で「SARS」が流行した時には、「党の基本理論、基本路線、基本綱領、基本経験の実践」が病毒との戦いに勝利をもたらした(人民日報)と言い、「神州五号(宇宙船)」打ち上げ成功の時は、本来科学技術者の貢献であるものを、中共のお陰であり、中共こそが中国人民を世界の大国に列しうる証しであると宣伝した。2008年のオリンピック開催権については、本来西洋諸国が中国の人権状況改善を進めることを意図していたにも拘らず、反って人権抑圧を「合法的」にし、民衆に対して公然と弾圧実施への口実として利用した。諸外国が見込んだ「巨大市場の潜在力」は、本来13億人民による消費であるにも拘らず、中共はこれを掌握しているとして、西側諸国への脅しの材料とし、中共統治の武器として使っているのである。

    全ての悪しきことは反動勢力と下心がある者が行うとし、全ての良いことは党の指導のお陰で成功したとしている。何かが達成されれば、それは全て中共統治の「合法性」を塗り固める材料となる。良くないことさえ、その悪事を塗り替えて、自らの「合法性」に貢献するものにしてしまう。例えば、中共は、エイズの流行について厳重な情報封鎖を行っていたが、隠し切れなくなると、態度を一変させた。自分たちが悪事の張本人であるにも拘らず、人類の疾病に対する挑戦者であり、患者への福音であり、エイズの対抗勢力であるとして、有名俳優から党の総書記まで動員して、大々的な宣伝を行った。人命に関わる重大な問題であるにも拘らず、中共は自らを粉飾する材料としてしか考えておらず、このような理不尽な手法は、中共という無頼漢にしかできないものなのである。

(二) 短絡的行為が後発劣勢をもたらす

    重大な「合法性の危機」に直面している中共は、統治を守り抜くために改革開放を進めたのだが、功を焦り目先の利を追ったがために、中国を「後発劣勢」に陥れてしまった。

    「後発劣勢」あるいは「後発優勢」の概念とは、発展の遅れている後進国は、逆に多くのものを先進国から模倣していけるということである。模倣には二つの形式がる。一つは制度の模倣であり、もう一つは技術及び工業化の模倣である。制度の模倣には困難が伴う。制度の改革は既得権益に触れるため、後進国は技術の模倣に走る傾向にある。技術の模倣は、短期間に発展の効果が見られるが、長期的発展という面からは、多くの問題を内包することになり、長期的発展の失敗を引き起こすこともある。

    中共は正に、この「後発劣勢」という失敗の路を歩んでいる。二十数年間にわたる「技術の模倣」で獲得した成果は、執政の「合法性」を国民に語るための資本とされ、自身の利益を脅かす政治体制の改革にはいっそう反発を示し、むしろ民族の長期的発展を犠牲にしようとするのである。

(三) 中共の経済発展は悲惨な代償を支払う

    中共は絶えず自国の経済発展を誇っているが、実は、世界経済における現在の中国の地位は、清朝の乾隆時代よりも下なのである。清朝乾隆時代の中国の国民総生産(GDP)は世界の51%にあたり、孫中山が中華民国を建国した当初の中国のGDPは世界の27%であり、中華民国11年のときのGDPも依然12%に達していた。中共が政権を取った際の中国のGDPは世界の5.7%を占めていたのが、2003年になった時点では世界の4%にも達していなかった。国民政府時代の数十年間の戦争によって引き起こされた経済的下降とは異なり、中共は基本的に平和な時代において経済的下降を引き起こしたのである。

    中共は、党の集団利益が至上という欠陥経済改革を維持し、政権執行を合法的にするために、目先の功利を追い求め、その結果、国家に悲惨な代償を払わせている。20年以上に及ぶ経済の急速な発展は、その大部分が資源の搾取となる過度の消耗と浪費という基礎の上に成り立っており、往々にして環境の犠牲をその代償として支払っている。中国のGDPに示される数字は、その相当な部分が、後世の人々が与えられるはずの機会を犠牲にすることによって獲得されたものである。2003年、中国の世界経済における貢献は4%にも満たないのに、鉄鋼やセメントなどの消費は、世界の1/3にも達しているのである(新華社2004年3月4日報道)。

    前世紀の80年代から90年代末までで、中国国土の砂漠化は年間1,000k㎡から2,460k㎡に拡大した。そのため、1980年には中国人一人当たり約13.5アールであった耕地面積が、2003年には約9.6アールに減少した。さらに、ここ数年の猛烈な宅地開発ブームによって、全国の耕地約700万ヘクタールが食い荒らされた。ただ実際には、宅地開発のために囲い込まれた土地の利用率は43%に過ぎなかった。また、現時点での廃水排出量は439.5億トンとなり、環境容量を82%も超えている。七大大河水系の中で、人や家畜の飲用に適さない水は40.9%を占め、75%の湖沼には様々な程度の富栄養化が起っている。…中国人と自然との矛盾が今日ほど突出していたことはかつてない。こういった状況が進めば、中国のみならず全世界が耐えられなくなるであろう(新華社2004年2月29日報道)。

    眼前の高層ビルに酔いしれている人々は、近づきつつある生態系の危機に全く気付かずにいるかもしれない。しかし、一旦大自然が人類に対して牙をむいたならば、中華民族が被る打撃は想像もつかないものになるであろう。

    一方、共産主義を放棄したロシアは対照的である。経済改革と政治改革が同時進行しており、短期間の苦しみを経た後、急速に発展への道を歩みはじめている。1999年から2003年までの間に、ロシアのGDPは累計29.9%成長し、国民の生活水準も顕著に向上した。西側ビジネス界も、「ロシア経済現象」について語りはじめたばかりでなく、ロシアというこの新興の投資地域に大挙して参入し始めた。世界で最も投資吸引力を持つ国として、ロシアは、2002年の17位から、2003年には8位に上昇し、初めて世界で最も歓迎されている10大投資地域の仲間入りを果した。

    ほとんどの中国人が、貧しくて立ち遅れており、人種間の衝突が絶えないという印象を持つインドでさえも、1991年の経済改革以来、発展の加速は顕著であり、毎年の経済成長率は7〜8%に達している。インドは市場経済法律体系が比較的整っており、金融システムも健全であり、民主制度も比較的成熟しており、国民性は穏やかであるため、国際社会からあまねく、巨大な発展潜在能力を持つ国であると考えられている。

    それに相反して、ひたすら経済改革だけ行い、政治改革を行おうとはせず、短期的な経済的繁栄という虚飾の下に、「制度の進化」という当然の選択を妨げている。このような片手落ちの改革は、中国社会をますます畸形化させ、社会の矛盾をますます際立たせるだけであって、人々が今日勝ち得た発展には何ら制度化された保障がないのである。その上、中共の特権階層は、国有資産の民営化の過程で、権勢を借りていっそう私腹を肥やしているのである。

(四) 中共の農民に対する詐欺行為

    中共の政権は、農民に依存して打ちたてられたものであり、古い解放区の人民は中共に全てを捧げた。ところが、中共は権力を掌握した後、農民を差別したのである。

     中共は、政権樹立後、極めて不公平な戸籍制という制度を制定した。「農業従事者と非農業従事者」を強制区分し、一つの国家内に分裂と対立を生み出したのである。農民には医療保険も失業保険もなく、退職金(廃棄保障)も融資制度もない。農民は、中国で最も貧しい階層であるにも関わらず、最も重い税金が課せられている。農民は、公積金、公益金、行管金、教育費附加、計画生育費、民兵建設訓練費、郷村道路建設費、及び特別慰問金(戦没者の家族、軍人家族などに与えられる)などが課せられる上、公糧、農業税、土地税、特産税、屠宰税なども支払わされる。しかも、各種の割り当て名目は枚挙にいとまがない。一方、こういった税金は、「非農業従事者」には課せられないのである。

    温家宝は2004年初めに出した「1号文件」(執行部による公文書)で、中国の農民、農業、農村は改革開放以来最も厳しい時期にあり、多くの農業従事者の収入は低迷、減少し、ますます貧しくなっており、都市部住民との収入格差は広がる一方であるということを明らかにした。

     四川省東部の営林場で、上級機関が植林用に50万元を支給した。すると、営林場の責任者がまず20万元を着服し、残りの30万元で請け負わせた。この予算が下層に下りていくうちに同様に着服され、実際に植林を行う当地の農民に渡されるお金はほとんど残っていなかった。ただ、政府は、農民たちがお金が少ないということで植林をしないのではないかなどということは心配していなかった。なぜなら、農民たちは貧しいので、いかに安くとも必ずやるはずだと考えたからである。「中国製」の物品が安いのも同じ理由である。

(五)経済利益で西側を脅かす

    多くの人は、貿易の発展が中国の人権、言論の自由、民主改革を促進しうると考えていた。しかし、十数年が経過した今日、これはただの希望的観測でしかなかったことが証明された。最も典型的な点はビジネスの原則である。西側諸国の公平透明が、中国ではコネクションに変わり、贈賄、収賄、汚職腐敗となる。多くの西側の大企業が、中国の腐敗進展を煽動する急先鋒となり、更には中国の人権弾圧、人民虐待を隠蔽する母体となっている。

    経済カードによる手口は、中共の無頼漢たる外交上での現れである。例えば、航空機の発注をフランスにするのか米国にするのかは、どちらが中国の人権言論問題についてあれこれ言及しているかによって決めるのである。経済的権益が多くの西側のビジネスマンや政治家をしっかりと取り込んだということである。北米の一部のウェブ関連企業がインターネット上の情報を封鎖する専用商品を中共に提供しており、一部のインターネット関連企業は、中国へビジネス展開するために、中共にとって好ましくないものを全てのウェブサイトから「自主的に」フィルターするということまでしている。

   中国商務部の統計によれば、2004年4月の中国における外資は累計で9,901.3億米ドルとなっている。外資が中国経済にとって大きな輸血的作用をもっていることは明らかである。しかし、その輸血の過程において、外資が民主、自由、人権の理念を基本原則として中国人民にもたらすことはなかった。外国企業と外国政府の「無条件」の協力及び一部の国による媚びは、かえって中共が宣伝用に使用する統治資本となった。経済の表面的な繁栄の表看板の下で、役人と商人が結託し、国家財産を掠め取り、政治改革の実行にこれ以上ない妨げとなっている。

三、中共の洗脳術は、「赤裸々」から「精緻化」へ

    しばしば聞かれる話として、「中共が以前よく嘘をついていたことは知っているが、今度の話は嘘ではない」というのがある。皮肉とも言えるのは、時の流れを遡ってみても、歴史的に見て、中共が何か大きな誤りを犯した時、人々はいつも同じことを語っていた。これこそ中共が数十年にわたり磨き上げて来た、人民を騙す虚言の本領である。

    大風呂敷を広げたような虚言に対しては、人々がいささか抵抗を感じるようになったため、中共の人を騙す嘘も「精緻化」し、「専門化」してきた。過去のスローガン式宣伝から、「少しずつ前進させる」、「細緻化し、微に入り細にわたる」手法となってきている。特に、情報封鎖をした状況において、「事実」の断片を切り取った虚言で、民衆を過った方向へと誘導しており、その害は、人々をいっそう惑わすものとなっている。

    英文雑誌「China Scope」2004年10月号に、中共が今日いかにして、さらに「精緻化」された手法で虚言を作り出して真相を覆い隠してきたかについての事例分析が紹介されている。2003年大陸でSARSが流行した際、外部では中共がその実情を隠蔽しているのではないかと疑ったが、中共はそれを再三否定した。中共のSARS報道が客観的なものであるか否かを確認するために、この記事の作者は年初から4月初めにかけて新華ネット上に発表されたSARS関連報道400篇余りに目を通した。

    これらの報道から作者は、次のような報道があったことがわかった。SARSが出現した際、中央から地方までの専門家が直ちに立会診察を行って治療し、病人は回復し退院したということ。一部の良からぬ者が風波を立てることを恐れ、政府は流言を遮断し、人民の生活秩序の安定を保障しているということ。外国にいる少数の反華勢力が、根拠も無しに、中国政府が隠蔽しているのではないかと疑っているが、大多数の国々と国民は彼らの言うことを信じていないということ。広州交貿会は、歴史上最大の規模で開催されようとしており、海外からの観光客が、中国の国内観光は安全であると証言したこと。特に(ごまかされた)WHOの専門家も、中共は協力的であり、措置は的を射ており、何の問題もないと語ったこと。(二十日余り待たされた)WHO専門家が広東省への公開視察を許されたということ。

    これら400篇以上に及ぶ報道から、作者は、中共は全てを透明にしており、人民の健康には絶対的な責任を負い、情報を隠すなどということは考えられない、と感じさせられた。しかし、4月20日になって、国務院の報道部は記者会見を行い、中国でSARSが全面的に発生したと発表し、実情を隠蔽していたことを認めたのである。ここから、中共の「時代と共に変化する」無頼漢的欺瞞の手段が明白に読み取れる。

    台湾の大統領選挙に関しても、「手順を踏みつつ」、「ゆっくり誘導」するという方式で、人民を巧みに洗脳し、大統領選挙によって、自殺率が上昇し、株価が下落し、「怪病」が増え、精神異常者が続発し、島民は海外へと移住し、家人は反目し合い、生活は張りを失い、市場は落ち込み、街では銃が乱射され、紛争抗議が起こり、総統府を包囲して天下大乱となり、政治はどたばた劇を演じる…毎日大陸の民衆にこういったでたらめな情報を流しては、人民に「これは全て選挙のせいである」、「私たちは決して民主選挙など行ってはならない」と思い込ませるのである。

    法輪功問題に関しては、中共は更に悪辣な手段を講じている。全ての演出は真に迫り、一つ一つ用心深く小出しにして行くことで、人々は信じざるを得なくなったのである。騙しによる無頼の手法は、騙される人々の感情を巧みに操り、虚言を真実であると信じ込ませる。その上、騙された人々は、自分たちが真理に準じているとまで勘違いしてしまうのである。

    この数十年間、洗脳で人を騙す手口は、より「精緻」で「微に入り細にわたる」ものとなり、その無頼の本質を増長させている。

四、 中共の人権偽装

(一) 権力を奪い取り民主を求めるためであったのが、独裁統治と人権偽装へ

    「民主国家にとって、主権在民は普遍の原理である。民主国家を自称する国で主権が人民の手中になければ、それは偽りであり、異常であり、民主国家ではない。党支配を止めず、人民による普通選挙も行わずして、何が民主と言えるのか?人民の権利は人民に渡さねばならない!」

    これは海外の敵対勢力が中共を打倒するための檄文であるに相違ないと思われたならば、それは誤りである。この宣言は、1945年9月27日付の中国共産党機関紙『新華日報』に掲載されたものである。

    大声で「普通選挙」を唱え、「人民の権利を人民に与えよ」と要求した中共は、政権を掠め取った後「普通選挙」を禁句としてしまった。「主人公となって政治に参与する」はずの人民は、主人公となる権利を全く得られなかった。このような手口は、「無頼漢」の二字をもってしても中共の面目を語るに足りない。

    これを過ぎたことであるとし、殺人によって政権を作り上げ、虚言で国を治める邪教中共も、今では改善され、「人民の権利を人民に与える」準備があると見なすことは、大きな誤りである。60年経過した今日、中共の機関紙『人民日報」がどのように唱えているか耳を傾けよう。

     「意識形態工作の主導権をしっかり掌握することは、党執政のための思想的基礎と政治的基礎を強固にするためにどうしても必要である」(2004年11月23日第九版所載)

    中共が最近唱え出した新「三不主義」[2]では、1番目に来ているのが「論争せずに発展させる」である。「発展」とは偽りであり、人に有無を言わせず、己の言うことを至上命令とする手法を強要する下での「論争せず」が、中共の本当の目的である。

    江沢民はかつて、CBSの名レポーター、マイク・ウォレスのインタビューを受け、「中国は、なぜ現在に至っても普通選挙がないのか」と訊ねられた。その時の答えが、「中国人の素質があまりにも良くないから」というものであった。

    しかし、1939年2月25日の『新華日報」には、共産党の見解として、「国民党は、中国での民主政治の実現を今日のこととせず、何年か後のことだとしている。彼らの希望は、中国人民の知識や教育水準が欧米のブルジョア国家並みになれば、民主政治を実現するとしている…ところが、民主制度の下にあるからこそ、民衆の教育訓練は正に容易に行えるのだ」と言っている。これこそ中共無頼漢の面目を正に現している。

    六四(天安門事件)後の中共は、重い人権という荷物を背負ったまま世界の舞台に帰ってきた。歴史が中共に選択の機会を与えたのだ。第一の選択肢は、人民を尊重し真に人権を改善することを学ぶことであり、第二の選択肢は、引き続き人権を侵犯し、対外的には人権を尊重しているように装い、譴責を逃れることである。

   不幸なことに、無頼の本性を持つ中共は、躊躇することなく第二の選択肢を選んだ。科学界、宗教界を含めた各領域で、欺瞞に満ちた宣伝を行い、人権が進歩していると吹聴する大量の偽装人員を雇い、「生存権」なるものを持ち込んでは人権論議をはぐらかせ(空腹で有れば話す権利が無いというのであろうか?例えそうであっても、満腹の人は、空腹の人のために何かを言うこともできないと言うのであろうか?)、人権ゲームを弄び、中国人民と西側民主国家を欺き、「今が中国の人権にとって最もよい時期である」と吹聴したのである。

    中共憲法第三十五条には、中華人民共和国公民は、言論、出版、集会、結社、デモ行進、デモの自由があると定められている。これは全くのところ中共のことば遊びである。中共の統治下では、どれほどの人が信仰、言論、出版、集会、弁護の権利を奪われたことか。さらには、一部の団体の陳情は違法と見なすとまで規定されているのである。2004年以来、一部の陳情団体が何度も北京でのデモ行進の許可を申請したが、政府は同意しなかっただけでなく、申請人を拘禁した。中共憲法に規定された香港の「一国二制度」さえもペテンである。何が50年不変なものであろうか。わずか5年で23条の悪法を通過させ、二制度を一制度に変えようとしたのである。[3]

     「言論を緩める」という言葉を流しては、監視をしていないように見せかけるのが、中共無頼漢の新たな策略である。中国人は現在、何かを語ることが以前より自由になったと感じている。インターネットの出現で情報の伝達もより早くなった。そこで、中共は、言論は自由であると言い、多くの民衆もそれを信じるが、それは仮面である。中共が慈しみ深くなったのではなく、社会の発展と技術の進歩を中共が阻止できなくなったのである。中共がインターネット上でやっていることをみる限り、ネット封鎖、フィルタリング、監視、コントロール、罪を着せるなど、完全に世の流れに逆行している。今日では、一部の人権良知に背く資本家らの協力の下に、中共の警察はパトカーの中でインターネット上の人々の動きを監視できる装備を備えている。世界の民主自由という大潮流の下で行っていることから見ると、中共は公に悪事を働いているわけで、こんな状態で人権状況の改善などあり得るはずがない。自ら述べている通り、「外は緩く見せ、内は締める」のであり、無頼の本質は全く変わっていないのである。

     国連人権会議における面子のため、2004年中共は人権侵犯を取り締る活動を行ったが、これは全て外国人に見せるためのもので、実質的な内容は全くない。というのも、中国にあって最大の人権迫害分子は共産党そのものであり、中でも前総書記江沢民、元政法委書記羅干、公安部長周永康及び副部長劉京などが中核だからである。彼等に人権侵犯者を取り締れというのは、正に泥棒が他人を泥棒呼ばわりしているようなものである。

       これは例えてみれば、強姦常習犯が以前は人が見ていないところで、毎日10人の少女を凌辱していたが、後になって通行人が多くなったため、大衆の面前で一日に一人しか凌辱できなくなったということである。この罪人は好くなったと言えるであろうか。以前は人の見ていないところで少女を強姦していたが、現在は大衆の面前で少女を強姦するというのであれば、この罪人はより下劣で破廉恥になったということであり、強姦常習犯の本性に何ら変化はなく、ただ、以前ほど勝手にできなくなったというだけのことである。

    中共は正にそういった無頼の強姦魔である。中共独裁の本質は、権力を失うことを恐れるという本能であり、人民の権利を尊重することなどあり得ない。人権尊重を装うために投入した人力、物力、財力は、真に人権改善のために付与した努力を遙かに上回っている。共産という無頼漢が中華を嗜虐しており、これこそ中国人民の最大の不幸である。

(二)「法律」を手段に「文明の衣を着て」無頼行為を行う

    中共は特権集団の私利を擁護するために、一方で偽装を取り外し、徹底的に工農民衆を捨てている。また一方では、中共の人権侵害のスキャンダルが次から次へと国際社会に暴露されるにつれて、欺瞞と無頼の手段も「時代とともに変化」し、「法治」、「市場」、「人民のため」、「改革」などの流行用語を用いては、人々を惑わすのである。文明の衣を着ている中共邪悪無頼漢の本性は変わっていないばかりか、人民服を着ていた以前の中共に比べ、より悪質で欺瞞と惑乱に満ちるようになった。例えて言えば、『動物農場』(1946年英国の小説家ジョージ・オーウェルが全体主義を皮肉った寓話)に描かれている、両足で立ち上がって歩くことを覚えた豚のようなもので、体を真っすぐにして歩く豚は、豚というものに対して新しいイメージを与えたが、豚という「本性」は全く変わっていないのである。

1)憲法に反する各種の法律法規及び条例を制定する

    これらのものは、いわゆる「法律に基づいたもの」として、国の各級法律執行担当者へ伝達され、「反迫害、自由の獲得、人権の擁護」のために努力する人民に対しての弾圧に利用される。

2)「非政治的」な問題に対して「政治的」手段を用いて解決する

     一般的な社会問題を「党と群集を奪い合う」、「党を滅ぼし、国を滅ぼす」、「動乱」、「敵対勢力」などの重大問題にエスカレートさせ、「非政治的」な問題を意図的に「政治的」な問題とし、政治運動の宣伝方式を用いて民衆の憤りを煽り立てるのである。

3)「政治的」な問題を「非政治的」手段で解決する

    一部の民主運動家や知識人に対して中共が採っている最新手法は、罠を仕掛け、「売春婦を買う」、「脱税」などの民事刑事罪名によって彼らを刑務所へと陥れることである。この手法を用いれば、人の目を眩ませることができる上、世間の非難から逃れられ、更に彼らを大衆の面前で辱めることができるのである。

    中共の無頼の本性があえて変わったと言うのであれば、更に恥知らずとなり、ますます人間性を失ってしまったということに尽きる。

(三)十数億の人民を拉致する「人質無頼漢文化」

     例えば、強盗がドアをうち破って押し入り、強姦をも犯した。法廷における弁護では、その「強姦行為」のおかげで人を殺さずに済んだのであり、「強姦」と「殺人」を比べれば、殺人の方が凶悪である。従って、法廷は被告を無罪釈放とすべきだと述べ、人々が「強姦は筋が通っている」と唱和すべきとする。

     これは全くの荒唐無稽であるが、中共の六四(天安門事件)弾圧の理論は、この強盗と同じなのである。彼等の説は、「学生を弾圧」することによって「内乱」を防いだ。だから、「内乱」と比べれば「弾圧は筋が通る」ということである。

    強盗が法廷で裁判官に、「強姦と殺人ではどちらがましか」と問う。これは何を意味するかと言えば、この強姦犯は破廉恥な無頼漢だということである。同様に「六四」(天安門事件)の問題において、中共とその同調者は、殺人が罪であるか否かという問題を検討したのではなく、社会に対して「弾圧と内戦ではどちらを選ぶか」と尋ねたのである。

      中共は、国の全ての機器と宣伝媒体をコントロールしている。言ってみれば、13億の人民は全て中共の人質である。この13億の人質を手にして、中共の「人質理論」は常に、一部の人を弾圧しなければ内乱になるかも知れない。そうすれば国家的災難に陥ると言っている。このような口実によって、いつでも所かまわず、誰かを弾圧したくなれば弾圧し、しかも永遠に「弾圧は筋が通っている」のである。このように民意を踏みにじっている中共を上回るような無頼漢がいるであろうか。

(四)飴と鞭を与える。「自由」の恩賜から、より酷くなった弾圧まで

      人々は、今は昔に比べると随分「自由」になったと感じている。そこから、中共は将来良くなって行くだろうという希望をもっている。しかしながら、人民が「授け」られた自由の度合いは、中共自身が感じている危機感と大いに関係がある。中共は、党の集団としての利益を擁護するのに役に立つことであれば何でもやる、というだけのことであって、いわゆる民主、自由、人権でさえも、必要があれば与えるのである。

     ただし、共産党の統治下で恵まれた「自由」には、何の法的保障もない。この「自由」なるものは、国際的大潮流の中で、中共が人民を麻痺させ思うままに操るための道具なのである。本来、それは中共の独裁的利益と合致するはずもなく、衝突するしかないものである。一旦、この衝突が中共の容認の限度を超えるまでに激化すると、中共はすぐさま一切の「自由」を奪い去ってしまう。中共の歴史の中で、言論が比較的自由な時期が何度かあったが、自由な時期の後には再び厳しい取締の時期がやってくる、ということが何度も繰り返されてきた。そこにこそ中共の無頼漢としての本性が現れているのである。

    現在、インターネット時代となり、新華ネットや人民ネットを読むならば、そこには多くのマイナス情報が存在することに気がつくはずである。第一に、現在悪しきニュースがあまりにも多く、しかもあっという間に伝わるし、その分野での競争から報道しない訳にはいかない。第二に、こういった報道の基本は、党の利益に合致するということであり、「小さなものを罵っておいて、大局的には得をする」という手口で、悪いことの原因は全て個人に帰し、党とは関わりが無く、しかもその「問題解決の方法」では決まって、「党の指導でなければ解決できない」となっている。何を報じ何を報じないか、報じるとすればどの程度か、報道は大陸のメディアから出すのか海外の共同メディアに報道してもらうのか、いかにして悪しきニュースを「昇華」させて民心を掌握するかなどについて、中共は非常に熟達しているのである。

    多くの大陸の若者は、中共の言論はかなり自由だと思い込んでいる。そこから中共に対して恩愛を覚え、希望を抱き、最終的にこの手の「精緻な」無頼のメディア戦略の犠牲となってしまう。更に、社会の局面を混乱させるために適当なマイナスの報道と組み合わせることによって、人民に対して、中共の強権がなければ時局を収められないと人々を脅かし、中共に賛成する以外の道を絶ってしまうのである。

    だから、中共が人権を改善するという善意を示すことがあったとしても、体質が変わったなどと思わないほうが良い。かつて、国民党との争いの中では、中共は民主闘士を装っていた。無頼の本性からして、中共の一切の承諾は当てにならないのである。

関連記事