【脱党支援センター2020年5月9日】
晏殊(あん しゅ、991年 〜 1055年)は小さい時から、正直者で頭が賢く、7歳になると、すでに立派な文章を書けるようになりました。14歳の時、晏殊は当時の江南安撫使(あんぶし)(※1)の張知白から「神童」と呼ばれ、宋真宗・趙恒(北宋の第三代皇帝)に推薦されました。1005年、晏殊は上京し、14歳で宋代最初の童子として、全国各地から来た3100人の挙人(きょじん)(※2)と同時に試験を受けました。晏殊は本来は直接に、皇帝から面接を受けることができましたが、彼はなんとしても科挙の合同試験に参加しようと思いました。「試験を受けて得た成績は、自分の本当の実力だ」と彼は考えていたからです。
試験官は晏殊の要求を受け入れ、彼を他の挙人達と一緒に合同試験に参加させました。試験場で、晏殊はとても落ち着いて、質問を素早くかつ適切に答えました。宋真宗の称賛を得た彼は、「同進士出身」(※3)という称号を与えられました。
翌日、2次試験を受けました。問題は「詩賦論」でした。晏殊はその題名を見て、以前、自分が練習の時書いたことがあると思い、試験官に「試験官様、この題名は以前に僕が解いたことがあるから、他の題名のものを出題してくださいませんか」と願い出ました。
試験官はこれを納得せず、晏殊が余計なことを言っていると思い、「解いたことがあっても構わない。それを書き出せば結構だ。よく書けていれば、同じように受かる。それに、他の題名を出題すれば、お前が失敗したなら、落第することになるだろう。しっかり考えなさい」と言いました。晏殊はすでに腹をくくっていて、「題名を変えなければ、たとえ受かったとしても、それは僕の実力ではありません。題名を変えて、うまく書けなければ、それは僕の学問がまだ十分ではないことです。僕は文句を一つも言いません」と申し出ました。それを聞いた試験官は、晏殊に他の題を出すことに同意しました。
新しい題をもらった晏殊はしばらく考えると、筆を持ち上げ、一気に文章を完成させました。試験官はこれを見て大変驚き、「この子は実に頭が良くて、本当に奇才だ」と思いました。晏殊は誠実と信用をモットーに、新しい題名を出すようにと求め、そして、しっかりと自分の実力を見せ、人々から尊敬を集めました。彼の噂は受験生の中だけではなく、宋真宗の所まで伝わりました。
宋真宗は晏殊を引見し、「お前は才能と学識があるだけではなく、もっと重要なのは、お前には誠実さと言う素晴らしい品格があることだ!」と称賛しました。
本来、自分のよく知っている問題にあって、楽に答えを出して、一挙に有名になれるはずだった彼は、別の題を求めました。晏殊は馬鹿でしょうか? いいえ、彼はとても誠実で、しかも、自分の能力を信じていました。宋真宗は彼のこの性格をとても気に入ってくれ、破格で彼を翰林(かんりん)※4に任命しました。
晏殊は職に就いた当初、ちょうど天下泰平で、京城の大、小の官吏らはよく郊外に遊びに行ったり、街中の料理屋や茶屋で宴会を開いたりしました。晏殊は家が貧しく、酒食や行楽に使うお金がなく、家で兄弟達と一緒に読書したり、文章を書いたりして過ごしました。
ある日、宋真宗は太子に家庭教師を選びたいと言い出しました。そして、大臣の推薦を断り、自ら晏殊を指名しました。大臣達は皆大変驚きました。宋真宗は「晏殊は宴会に参加もせず、家に閉じこもって読書していると聞いている。彼は正直で温厚で慎重な人だ。太子の身の回りに置くには最適な人選だ」と言いました。
晏殊は皇帝に謁見して、感謝の意を表しました。そして、「私は遊びや宴会に参加したくないのではありません。私は貧しくてお金がないからです。お金があれば、私も行なっていると思います」と本音を言いました。宋真宗は晏殊が本当に正直者で、彼をより信用するようになり、彼のことをもっと寵愛しました。
晏殊は誠実で真面目な性格が評価され、皇帝と大臣達の前で自らの信用を勝ち取り、確立しました。宋仁宗・趙禎(北宋の第四代皇帝)が即位されてから、晏殊は大いに起用され、宰相まで上りつめました。晏殊は宰相になった後も、気障(きざ)っぽいことをせず、民衆から支持を得ました。
晏殊は長年要職に付いていましたが、気さくで親しみやすく、賢材を登用し、人材の育成に努めました。范仲淹(はん ちゅうえん 北宋の政治家・文人)、孔道輔(こう どうほ 孔子の45世の孫)、王安石(おう あんせき 北宋の政治家・詩人・文学者)等は皆彼の門下から生まれ、韓琦(かん き 北宋の政治家・詩人・文学者)、富弼(ふ ひつ 北宋の政治家、官僚)、欧陽修(おうよう しゅう 政治家、詩人・文学者、歴史学者)等も彼に育成され、推薦されて重用されました。晏殊は知識人を誠実な態度で対応しました。
一度、晏殊は揚州を通った時、疲れたために、随行する人達と大明寺に入って休憩を取りました。寺に入ると壁には多くの詩が書かれているのを見て、晏殊はとても興味を持ち、椅子に座り、随行の人に壁の詩を読んでもらいました。しかし、詩の作者と身分を言わないようにと言い付けました。
しばらく聞いてから、一つの詩をとても気に入り、「誰の詩だ?」と聞くと、王琪と言う人のものだと答えました。そこで、王琪を呼んで来るようと命じました。王琪が来て、晏殊に挨拶し、2人はしばらく喋りました。とても意気投合した2人はご飯を共にし、食後、庭で散歩しました。ちょうと晩春の時期で、地面に落ちたいっぱいの花びらが風に吹かれて、花弁がひらひら舞い上がり、とても美しい景色でした。
晏殊はその光景を見て心を打たれ、「王先生、私はいい句を思い出すと、いつも壁に書き、そして、次の句を考えるようにしているが、ある詩をすでに数年も温めましたが、未だに次の句を思いつきません」と言いました。
王琪が「その句は、なんという句でしょうか?」
晏殊は「いかんともすべきなく 花は落(ち)りゆく」という句だ。
王琪はすぐに「かつて相い識りしがごとく、燕は帰り来たる」ではいかがですか? つまり、天気が暖かくなって、かつての知り合いのように燕が南から帰って来るという意味です。晏殊はそれを聞くと、「見事だ、見事だ」としきりに言いました。
晏殊はこの二句をとても気に入り、彼は『浣渓砂』の中にこの対聯を使いました。
一曲新詞酒一杯,去年天氣舊亭臺。夕陽西下幾時回?
無可奈何花落去,似曾相識燕歸來。小園香徑獨徘徊。
一曲の新しき詞(うた)に酒一杯、去年の天気、元の亭台。夕陽西に下り、いつか回らん?
いかんともすべきなく 花は落(ち)りゆく、かつて相い識りしがごとく、燕は帰り来たる。小さき園の香れる径、ひとり徘徊(さまよ)う。
晏殊は王琪をとても褒めたたえ、京都に帰った後に宋仁宗に推薦しました。宋仁宗の認可を得て、京城に赴任した王琪は、まず館閣校勘(宋の官吏名)に務め、その後、他の要職も歴任しました。
晏殊が北宋の文壇で輝かしい名声を上げたのは、彼の誠実さと優れた才能と密接な関係があったのです。
※1 安撫使(あんぶし:中国古代の官吏名のことで、中央から地方へ派遣された地方問題を処理する官吏の事)
※2 挙人(きょじん:唐・宋では進士の試験を受ける者のこと)
※3 進士(しんし:隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つで、科挙時代の一種の資格の称号)
※4 翰林(かんりん:高名な儒学者・学士のこと) (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/1/18/399119.html)
明慧ネット転載
アメリカ (140) ウクライナ (233) コロナウィルス (158) スパイ活動 (166) トランプ (338) バイデン (344) バイデン政権 (161) ポンペオ (173) ロシア (340) ワクチン (318) 上海 (209) 中共 (2948) 中共ウイルス (570) 中共当局 (332) 中共軍 (188) 中国 (2071) 中国企業 (150) 中国共産党 (1319) 中国崩壊 (149) 中国当局 (147) 中国経済 (285) 中国製 (155) 人権侵害 (333) 伝統文化 (236) 北京 (239) 北京五輪 (180) 南シナ海 (151) 台湾 (841) 台湾海峡 (148) 封鎖 (154) 抗議デモ (147) 新型コロナウイルス (196) 新疆ウイグル人 (208) 日本 (540) 法輪功 (349) 法輪功学習者 (200) 洪水 (202) 災害 (196) 疫病 (174) 米国 (951) 習近平 (932) 臓器狩り (257) 軍事 (220) 迫害 (217) 香港 (482)